〈85年5月同日 W-15ストリート・アパートメント一室〉

 ビレンは苛立ちと焦燥のような感情をほのかに覚え、異国の少女に見惚れるヴァレアを軽く腕で押し退けた。ヴァレアは抗うことすら忘れたぼんやりとした様子で、そのまま半歩退く。
「あぁ、お兄さん、困るね」
 少女のほうはヴァレアを見てから、おかしそうに笑ってぎこちない発音で言った。
「どういう意味だ」
 ビレンは銃を片手に構えたまま、短く答える。
「ここ、連れ込み宿じゃないよ。わたしがお相手するだけ」
 ベッドの上であらわな脚を組みかえながら、少女が笑う。そのあるべきではない姿にビレンは眩暈がした。吐き気がした。
 そして持つことのできた確信に、煮え返った臓腑を吐き出したくなるほどの憤怒に駆られた。
 この少女は娼婦であり、先ほど下で出会った男はこの少女を買っていたのだ。
 そしてヴァレアを連れた自分は、彼らに、"その同類だと思われた"。
 あの男の向けるいやな笑みは確かにある種の予感をビレンにもたらしていたのだが、それが事実であると改めて認識するかしないかでは大きく違う。
 ビレンはさっきの男の鼻を拳で潰してやらなかったことをひどく後悔した。
 怒りのあまり手が震えて、銃口が少しぶれる。ビレンはなにかの拍子に指を曲げて引き金を引いてしまわないよう注意を払うことに、多大な努力を強いられた。
「お前の元締めはどこにいる」
「なんのことね」
 なんとか感情を抑えながら問い詰めるビレンに、少女は首を傾げる。とぼけているのか、それとも言葉を理解しきれていないのか、どちらとも取れる様子だった。
 ビレンは冷静にこの少女と会話を続ける自信がなかった。忌々しげに首を振って、煮えた感情を少しでも冷ますように息を吐いた。
 銃を少女のほうへ向けたまま、窓の傍に歩く。まだ半ばほうけていたヴァレアははっとして、慌ててビレンの後に続いた。
 ビレンはわざと乱暴に音を立てて窓を開ける。下にいるビリーの注意を引くためだ。車から上半身を乗り出し、窓を見上げるビリーの姿がビレンの視界の端に入った。ビレンは大きく一度、宙をすくうように腕を振ってビリーを招いてから、改めてベッドの上の少女に向き直る。
「なんにしろ、警察に行ってもらう」
「警察? わたし悪いことしてないよ」
 少女が柳眉を寄せた。
「児童売春が見逃せることだとでも?」
 ビレンはその言葉を口にすることすら忌まわしいといった様子で返す。本来なら責められるべきは彼女でないことを頭では理解できているにも関わらず、ビレンの神経は不快感に泡立って仕方がなかった。また、自分の後ろからヴァレアが少女に視線を注ぐことも、ビレンの苛立ちを増加させていた。
 少女は唇を尖らせて、考えるような表情を見せたまま口を開かない。かわりにビレンが続けて言った。
「逮捕はされない。本来なら保護されるだけだ。だがお前は旅行者か? 正式な移民か? 密入国者なら、送り返される」
 送り返される、とビレンの口は紡いでいたが、そこに含まれる感情は、"送り返されろ"と言っていた。
 それを読み取ったのかどうかはわからないが、少女はひとを食ったような薄ら笑いを浮かべる。
「む"つ"かしいこと、わたしわからないね。言葉もいまいち。でも男のひとは、本当にこわいこわいね。きらいよ。まぁ、でもしかたないかも。乱暴しないなら、わたしもおとなしくするね」
 少女がそこまで口にした頃、銃を片手に提げたビリーが戸口に姿を現した。部屋の中の少女を見て一瞬眉を上げたが、探していた人物と符合する人種や年恰好に、なるほど、と軽い相槌を打った。
「こうも当人がすんなり見つかるとは思わなかった。まだ他の部屋は見ていないが、後回しだ。警察に引き渡そう。ビリー、連絡してきてくれ。他に出入りするのはいなかったな?」
「ああ、いなかった。最初、お前らが入った直後に出てきた酔っ払いだけだ」
「そのくそったれの酔っ払いもとっ捕まえろ。あいつは子供を買うクズだ」
「そういうことか。オーケイ」
 ビレンは銃を下ろし、ビリーのほうを振り向いて(少女を注視するのはその間ビリーに任せておけばよいのだ)荒い口調で告げた。ビリーは彼の憤慨した様子に肩をすくめてから片手を上げて了解の返事をし、自動車電話を使うためにその場から立ち去っていった。
 ビレンは一瞬ヴァレアも連れて行くように言おうとしたが言いそびれてしまい、声を張り上げて呼び戻すこともはばかられたので諦めることにした。
「警察、すぐくるか?」
「わからん。しばらく掛かる可能性もある」
 ベッドから脚を垂らしてゆらゆらと揺らしながら少女が尋ね、ビレンは素っ気なく答えた。
「なら待ってるあいだ、ヒマよ。そこの、あなた」
 少女は上体を乗り出して、ビレンの後ろへ視線をやった。半ば彼の影に隠れながらも、少女をずっと見続けていたヴァレアに向けて。
「え……えっ?」
 てっきり自分は蚊帳の外だと認識していたらしいヴァレアは、急に彼女の意識が自分に向けられたことに戸惑いの声を上げた。
「わ、私?」
「そう。ねぇ、お兄さん。警察くるまで、この子と話してたいよ。だめか?」
「なんだと?」
 少女はヴァレアに笑いかけたあと、ビレンのほうを見て言った。ビレンがあからさまな警戒の声音で答える。
「わたし、退屈きらい。でもお兄さんは、わたしとおしゃべり、嫌ちがう? わたしもあんまり嫌ね。だからその子とお話したいよ」
 自分の立場を理解しているのか、という言葉をビレンは飲み込んだ。あまりに悠然とした少女の態度は、それを言ってやることすら馬鹿馬鹿しく感じるほどだった。
「なにを企んでいる?」
「たくらむ? なにもないよ。おしゃべりがすきなだけ。あなたも、わたしとお話したいね? ちがうか?」
 またヴァレアを見つめる少女のその言葉に、ヴァレアは頬を赤くした。落ち着かない様子で視線をさまよわせて、否定も肯定もできずにいる。
 私に遠慮して肯定の言葉を吐けないのだろう、とビレンは思った。そして事実そのとおりだった。少女はそれを見抜いたように、にっこりと笑った。
「じゃあ、お話しましょ。お兄さん、お外出ててほしいね」
「それはできない」
 ビレンは即座に言葉を返した。とんでもないことだった。この得体の知れない小娘は、なにをするかわからない。
「私はここにいる」
「それじゃあ落ち着かないわ。お兄さん、こわいこわいもの」
「なにを企んでいる」
 ビレンは言葉を繰り返した。少女は足をばたばたとさせて唇を尖らせた。その仕草は歳相応のようでもあり、不相応なコケティッシュさが含まれているようでもあった。
「なにもたくらんでないよ! 聞き分けわるいお兄さんね。警察行くのこわいし、どうなるかわからぬね。だからその前に、ちょと歳近そうな女の子とおしゃべりするくらいだめか?」
「駄目だ」
「じゃあ、その子とふたりにしてくれないなら、わたしお兄さんに乱暴されかけたて警察に言うのはどう?」
 少女の口ぶりは冗談そのものだ。ビレンのこめかみがびりびりと痛むほど痙攣する。相手にしていられない。
「あのね、ほかの部屋にお仲間いるよ」
 それでもビレンが動かないのを見て、少女は薄ら笑みを作った。ビレンはそれまでと異なる険しさに目を細め、少女を睨む。
「……"どういう"仲間だ?」
「さあ? でも、うしろから撃たれないように、気をつけたほうがよいね。閉じ込めて、火をつけられたりとか?」
 ビレンは少女を見据える。しかし彼女からはなにも読み取れない。一度、開け放されたままの扉の外に視線を向ける。ビレンの勘はハッタリだろうと告げていた。子どもがわがままを通すための、口から出任せ。しかし他の部屋をまったく探っていないのも確かだ。誰も潜んでいないと断言はできない。
 ビレンは眉間に皺を寄せて溜息を吐いた。視線をヴァレアに下げると、彼女は不安げな瞳でビレンを見上げていた。控えめではあったし、ビレンが否と言えばそれに従うであろうと思われたが、それでも奥に押し込めきれない期待がそこに浮かんでいた。
「少し待て」
 ビレンはもう一度溜息を吐き、少女にそう言ってからヴァレアの腕を掴んで部屋の外に出た。戸惑っているヴァレアに合わせ少し屈んで、声をひそめる。
「油断はしないこと、なにかあったらすぐにそれと分かるように知らせること。声でも物音でもいい。いいか、"なにがあってもだ"。知らせる間もなく意識を失わされる、なんてことはあってはならない。その場合、君の安全の保障はまったくできない。まったくだ。向こうの人質にされるような事態も必ず回避しろ。脅されそうになったらその前に動いて知らせるんだ。武器と薬の類にはくれぐれも注意しろ。常に相手の動きに意識を払え。それだけだ」
 ビレンは警戒心とは別にすっかり不機嫌だったから、常日ごろよりもヴァレアに対する語調が無意識に厳しくなっていた。ヴァレアはそれに少し萎縮した様子を見せたものの、それでも真剣に彼の言うことを聞いて何度も頷いた。
 ビレンはなにか武器を彼女に持たせようかと考えたが、逆に相手に奪われては元も子もないと取りやめた。なにかが起こった場合、明らかにヴァレアよりもあの少女のほうが、冷静にうまく事を運ぶだろう。
「重々気をつけて」
 ビレンはそう言って、ヴァレアの背中を押して部屋の中へ戻した。それから威圧的な声で少女に告げる。
「いいか、くれぐれも余計なことは考えるな。逃げようとも思うな。場合によっては射殺もやむなしと思え。時間は最長で十五分。それより前に警察が来れば当然そこで打ち切りだ。わかったな」
 少女は少し不服そうな表情を浮かべたが、「わかった」と頷いて答えた。
 緊張した面持ちのヴァレアと視線を交わしてから、ビレンは部屋を出る。そしてポケットを探り、事務所の鍵からキーホルダーをはずして、それを扉に噛ませてから閉めた。これで扉は完全には閉まらないし、取り除いて閉めようとしてもすぐにわかる。
「用心ぶかいね」
 扉で大半が遮られ遠くなった少女の笑い声が最後に届くが、ビレンは限界まで閉じる寸前のわずかな隙間から険しい眼差しを一度向けるにとどめた。いつでも対応ができるよう、扉のすぐ脇に背をつけながら、廊下を一瞥する。相変わらずなんの気配もない。しかし、もうそれでもいいと思っていた。こうして外と中の両方を警戒していればよい。なによりあの少女を見なくて済む。
 ビレンは、左の手のひらを広げて見下ろした。
 先ほどあの男の腕を掴んだ手だ。いまさらのようにそれが酷く汚らわしく感じられた。忌まわしい怒りに襲われ、乱暴にその黒い革手袋を引き抜く。
 そうして自分から少しでも遠ざけようと、廊下に放り捨てた。


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