〈85年5月同日 W-15ストリート・アパートメント一室〉

 ヴァレアは背後に聞こえる蝶つがいの軋みに、緊張で大きく静かに深呼吸をした。
 改めて部屋を眺める。ここは確かに自分たちがいた場所だった。てっきり当時の不安がもっと鮮明になって自分を襲うものと覚悟していたのに、それほどでもないなとヴァレアは思った。
 原因は明らかだ。今、この部屋の主となっている少女の存在感のせいだった。
 ベッドの上に座る異国の少女は、そこにいるだけですっかり周囲の空気を変えてしまうようにヴァレアには思えた。
 赤と黒の色彩の中に白い肌を浮かび上がらせ、そのすべてが酷く美しかった。そう、"酷く"だ。しかしヴァレアは、ただ美しいとだけ感じる。
「こっちきて」
 少女は小首を傾げるようにしながら微笑み、ヴァレアを手招く。動きのひとつひとつに作られたような艶やかさがある。
 ビレンが見ていたなら、また彼を泥のような不快感にぶち込んだに違いなかったが、ヴァレアの中にそれを感じるだけの下地はできあがっていなかった。
 ヴァレアは慎重な足取りで、少女のもとへと近づく。少女の真正面に、数歩分の距離を開けて立ち止まった。高さの違う視線が交差する。
「ここ、すわってよ」
 少女は自分の隣を叩いて催促する。微笑んでいるが、ヴァレアが距離を保ったことに対する不満げな様子も見てとれる。拗ねたようなその表情には、抗えないだけの魅力があった。だからヴァレアは少し悩んだ末、ビレンの言いつけ通り少女の挙動からは目を離さないように努めながら、その誘いに乗ることにした。ヴァレアが腰を下ろすと、おんぼろの安ベッドは耳障りな軋みを発した。
 少女は上機嫌に腰を軽くマットレスの上で弾ませて、ヴァレアの顔を覗き込む。
「緊張してるね? だいじょぶよ、なにもしない。危ないことないよ。きてくれて、ありがとね」
 少女が微笑とともに述べる礼に、ヴァレアは頬に熱が集まるのがわかった。なぜこうも鼓動が早くなるのだろうかと、ヴァレアは胸を押さえながら、無言で頷くことが精一杯だった。
「もう、ついてないったらない。警察? あぁ、いやだいやだ! どうせこわくてつまらない連中ばっかりよ。楽しくおしゃべりできる相手なんていないね」
 少女は勢いよくベッドに倒れ込み、ごろごろと身体を左右に転がしながら言った。白い脚が踊っていた。
「だから、あなたとおしゃべりできると、わたし嬉しいよ」
 急な動きに驚いて少し身を引いていたヴァレアは、少女のその微笑みに、固く持っているべき警戒心が薄れていってしまうのを感じていた。
 むしろビレンがあれほど不快感をあらわにし、憤っていたことが、どうしても理解できなかった。売春という言葉で、この少女が身体を売っていることだけは表面的に理解できたが、それによって彼女自身が責められるべきなのかどうかわからなかった(もっとも、ビレンのこの少女に対する感情は、彼自身明確な説明ができるものではなかったのだが)。
 ヴァレアは元来が素直な子供なのだ。年齢を考えれば彼女の気性は素直すぎるほどだ。様々な背景を知らなかったし、まだ他者を疑い警戒し続ける能力を身に付けることができていなかった。
「……私も」
 ヴァレアは口を開き、小さく答える。少女は満足げに笑みを深くした。足を高く上げて、縮めた身体の向きを変え、ベッドにきちんと横たわる。それからまた、自分の横をぽんぽんと叩いた。ヴァレアは少し面食らい、まばたきを派手に何度かしながら戸惑っていたが、少女がまた拗ねたように唇を尖らせたので、結局折れた。
 彼女から目を離さないようにしながら、ゆっくりとベッドに横になる。とたん、ヴァレアは奇妙な臭いを感じた。嗅いだことのないもので、あまりよい臭いだとは思えなかった。ヴァレアには分からなかったが、それは明らかに性行為の残り香だった。
 横たわったヴァレアに、少女が軽く身を寄せてくる。赤い髪から、また知らない香りがした。髪に塗っている香油のもので、これはよい匂いだとヴァレアは思った。
「あなた、名前はなんていう?」
 少女が頬の下で両手を重ねながら言った。ヴァレアは答えていいものか一瞬迷ったが、先ほどビレンがビリーの名を呼んでいたことを思い出し、名前だけならそう隠す必要もないのかもしれないと思った。
「……ヴァ、ヴァレア」
「バレア?」
「ヴァレア」
 ヴァレアはゆっくりと発音してみせた。
「ヴァ、レア……ヴァレア。発音む"つ"かしね」
「ご、ごめん」
「あなた謝ることちがうでしょ」
 少女がころころと笑う。間近で見る少女の顔は、視線をそらすことすらためらわれるほどに美しかった。それは妖美と言っていいものだろう。
 典型的な東洋人の顔立ちで、切れ長の目には化粧で長くなったまつ毛の影が落ち、黒に近い大きめの焦げ茶の瞳が興味深げにヴァレアを見つめている。紅を引いた唇は、形良く微笑んでいる。ヴァレアはそうと感じなかったが、どこか媚びることを義務付けられたような笑みだった。それでも美しいことには違いなかった。
 ヴァレアも充分愛らしい少女だったが、この少女と並ぶと霞んで見えた。もっとも大半の大人は、一部の悪徳を持つ大人の恣意によって作り上げられたこの少女の美よりも、いたって子供らしく、あるべき子供の姿であるヴァレアをよりよい姿と思うだろう。あるいはビレンのように。
「あなたは、名前なんて言うの?」
 ヴァレアは笑われたことにはにかみながら尋ねた。少女は少し沈黙を置いた。考えるように唇を突き出しながら(どうやらこれは少女の癖でもあるようだった)、その人工的な紅色の髪をひと房指に巻く仕草をした。
「ホン――ファ」
「ホンファ?」
「そう。ホンファ、呼んでね。こっちだと、なに言うか……そう、そう、紅花《サフラワー》ね。あるでしょ? あの字を書くよ」
「サフラワーなら知ってるわ。黄色くて可愛い花よね」
「そう、そう。でも紅って意味の字を書くよ。紅の色取れるね。薬にもなる」
 ヴァレアは名乗る前の少女の様子から、それは本当の名前ではないのかもしれないと思った。しかし同時に、それでも構わないと思った。
「素敵な名前ね。だからそんな髪の色にしてるの? 染めてるの?」
「ありがと。まぁ、そうね。染めてるよ。結構大変ね。髪の根元、すぐ黒くなるから、しょっちゅう染め直ししないとだめね」
 ホンファは目を細めて笑ってから、そう言って脳天の髪の分け目に指を這わせてみせた。ヴァレアが覗き込むと、確かにごく生え際に近い部分は黒い色をしていた。
「どうして染めてるの?」
「黒いほうが綺麗言って喜ばれること多いけどね、わたしの国でも。でもたまには、珍しのもいるとよいことよ。同じようなのばっかりではだめ。飽きられるね。だからわたしはこの色にしてる。かつら、か"む"ることもあるよ。黒いのとか、茶色いのとか、金色のとかね。お客さんのお好みで変える。――あなた、年上か? 歳、いくつ?」
 少女の言葉は年齢に合わぬ彼女の"仕事"に言及していた。ヴァレアは少し苦しげに眉を寄せてなにを言うべきか考えたが、それを遮るようにホンファが次の質問をよこした。
「え、あ、えっと……もうすぐ十二になる、けど」
「まぁ。それならわたしと変わらないね。わたし今年もう十二になった。この国のひとは、歳わからないよ」
「私にはホンファのほうが、大人っぽく見えるわ」
 じっと見つめてくるホンファの視線に、ヴァレアは落ち着かない様子で身じろぎしながら率直な感想を口にした。背はヴァレアのほうが高く、またホンファは華奢すぎるほど華奢な身体つきだった。東洋人らしく骨格そのものが小作りなのだ。だが、確かにまとう雰囲気からしてホンファのほうが年長にも見えるだろう。大人の目ではともかく、同じ年頃のヴァレアの目からすればなおさらだ。
「そうか? ほめ言葉?」
「う、うん」
 ヴァレアは肯定を示すために必死で頷いた。その様子に、ホンファはまたおかしげに笑う。ヴァレアは恥ずかしそうに首を縮めた。だがホンファがずっと笑っているので、ヴァレアもしまいにはつられて小さくふき出した。
 しばらくの間、二人はなにもかもがおかしくて仕方ないという年頃の少女たちのじゃれあいのように、くすくすと笑いあっていた。
 ヴァレアは楽しかった。"自分がなにに飢えているのかが"、漠然と浮かび上がりつつあった。
 しかしそれは、本当にしばらくの間だけだった。だから形作られつつあったなにかは、一旦霧散することになった。
「……ねぇ。あなたたち、何者か?」
 ホンファは、不意に笑みを消してそう言った。


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