〈85年5月同日 W-15ストリート・アパートメント一室〉

 ヴァレアは思わず身を硬くした。もちろん笑いも一瞬で消える。
「警察呼ぶ、言ってたね。なら警察とちがうでしょ? なに?」
「……ホンファ、こそ。なんなの? どうしてこんなところにひとりでいるの? こんなことを、してるの?」
 ヴァレアは緊張の中で思案し、敢えて答えず質問を返した。それを聞き出すことは、必要なことであるように思えた。
 ホンファは寝返りをうち、無表情で天井を見上げた。
「ホンファは、ここに住んでるの?」
 答えがないと悟ったヴァレアは、質問を変えた。
「住んではいないよ。ときどき、ここでお客をとる。一箇所にずっといる、あんまりよくないから」
「どうして?」
 ホンファが顔だけをヴァレアのほうに向ける。その眼差しは厳しかった。
「考えたらわかることね。さっきの兄さん、わたしになに言った? 警察まで呼んだ。それで充分ちがうか」
「……だから、それはどうして?」
 ヴァレアは怯まなかった。だがホンファは再びだんまりを決め込んで、上を向いた。
「じゃあ、なんでこの部屋にいるの?」
 ヴァレアはまた質問を変えた。ホンファは目を閉じたと思えるほどゆっくりとまばたきをした。
「たまたまよ。空き部屋だった。……なぜそんなこと聞く?」
 ホンファは横目でヴァレアを見ながら、少しうんざりした様子で言った。ヴァレアは視線をわずかに落とし、息を深く吸い込む。
 この部屋にいた頃にいやというほど嗅いだ埃の臭いと、まったく知らないあの奇妙な臭いと、そしてホンファの髪から香る匂いが混ざり合って鼻腔を通っていった。
「私はここに住んでたの」
 ヴァレアはホンファをじっと見つめたまま、半ば呟くように言った。それを聞いた少女の瞳に、ほんのわずかに驚きが滲んで見えた。
「それ、本当か」
「本当よ。ここでね、少しの、本当に少しの間暮らしてたわ。家族みんなで。でも、お父さんとお母さんはいなくなっちゃった」
 ホンファは静かに身体を起こした。ヴァレアもゆっくりとそれに続く。
「……だからヴァレアは、この部屋見に来た?」
「そう。ホンファは、なにか知らない?」
 ホンファはどこを見るでもない眼差しを壁のほうへ向けながらあぐらをかき、答えるための問いを返すこともせず、否定も肯定もしなかった。いっそうあらわになる太腿は白磁のように滑らかだった。
「あの兄さんたちは、わたしを探しに来たのちがうのか」
「……そうだと思うわ。この建物の付近にいる東洋人の女の子を探すって」
「なら、わたしね。こないだのオマワリか。わたしもドジだ。でもだからって、なんでヴァレアが一緒に来る?」
「それは……私は東洋系だって言われるし。だからなにか繋がりが見つかるかもしれないとか、お父さんとお母さんのことがわかるきっかけになるかもしれないとか、そういうことだと思う」
 それを聞いたホンファは、肩を弾ませて鼻で笑う。嘲るような笑い方だった。
「"東洋"、ひとつだとでも思ってるか、こっちの人間は」
「でもこの辺には、東洋人どころか私みたいな東洋系もほとんどいないのよ。だからもしかしてって、そういうことなんだわ。ホンファはいつから、ここにいるの?」
「覚えてないわ」
 ホンファはつまらなさそうな顔をして脚を伸ばし、紅色のペディキュアが彩る爪先を指でなぞりながら、短く答えた。声はどのような感情でも彩られていなかった。
 ヴァレアは眉を下げ、少し悲しげな表情を見せてから、上半身を彼女のほうへ寄せた。
「……ねぇ、ホンファ。ここは、危ないわ。この通りは、危ないの。だから、あまりここにいないほうがいいよ」
 ヴァレアは、この少女を危険から遠ざけたかった。この少女に不思議な親愛を感じていたからだ。
 なぜならホンファはヴァレアが初めて(剣呑なものも含まれるとはいえ)親しく会話を交わした歳の近い同性だった。この一室にいたことも、自分の境遇と重ねて親近感を持つ要因となった。
 ヴァレアは、少女に友情を抱きかけていた。ヴァレアは友情に飢えていた。友人に飢えていたのだ。
 ワルターを敬愛し、ビレンに憧れ、そしてビリーやリサは確かに友人だった。彼らのことはみな心から大切に思っていた。
 だがヴァレアは子供だ。ただでさえ学校にも通っておらず、また家族で暮らしていた頃ですら、家族以外の人間との交流はほとんどなかった。だから同じ年頃の友人が欲しかった。ヴァレアはこの少女と友情を通わせたかった。
 だがホンファは一度目を伏せ、そしてすぐに薄ら笑いを浮かべて言った。
「なんで、そんなこと言うか? おとなしく警察行け言う説得?」
「それは……そうかもしれないわ。だって、ここは危ないの。でも警察に行けば、まだ安全に守ってもらえるわ。だから」
「警察行ったら、わたしたちもう会えないかもしれないよ?」
 今度はホンファのほうからヴァレアに寄る。顔に顔を近づける。ヴァレアは少し落ち着いていた心臓の鼓動が、また早まるのを感じた。
「そ、そんな、こと……」
「さっきの兄さん言ってたね。場合によったら、送り返される。そしたらもう会えないよ」
 ホンファの声は誘うようだった。ひとを籠絡するような危うい甘さがあった。
 ヴァレアはホンファと友情を繋ぎたかった。しかし同時に、一目見た瞬間からその美しさに魅了されていたことも確かだった。
 先ほどホンファと笑い合っていた際に作られかけていた友情の思いは、形を為す前に彼女の追及によって崩れ、それはいっそう不安定なものとしてヴァレアの中にたゆたっている。
 幼い感情は、容易に混乱しうる。成長すれば明確に区別のつく感情が、いとも簡単に混じり合い、別の感情となって成立しうる。
 そして、それはそれでけっして偽の感情ではないのだ。
「わたしは、ヴァレアと会えないのいやね」
 ホンファは蠱惑の囁きとともに、さらにヴァレアのほうへ身を乗り出した。ヴァレアは思わず重心を後ろへ傾け、身体が倒れそうになるのをベッドに手をついて防いだ。だが、ホンファを押しのけるよう動くことはできなかった。
「ね?」
 ホンファの紅の髪がヴァレアの頬をくすぐると同時に、紅の唇がヴァレアのそれに押し当てられた。柔らかく優しい口付けだった。
 私も会えなくなるのは嫌だ、という言葉は、一時の勢いでヴァレアの口からほとばしる前にその口付けで遮られた。だが、その口付けによってむしろ、消えた言葉は思いとなって明確にヴァレアの中に植わってしまった。
 キスは短い時間で終わった。ホンファはヴァレアから身を離し、にっこりと笑う。
「わたし、誘ったくせに、あんまりたのしくない話してしまった。今のはお詫びね」
 ヴァレアは早鐘を打つ心臓が痛むようにすら感じて、服の胸元を強く握り締めながら首を振ることしかできなかった。
「さっきのは冗談。心配しなくても、ちゃんとおとなしく警察行くよ。でないと、あのこわいこわい兄さんに撃ち殺される」
「……あ、あれは、ただの脅しよ。本当にそんなことしたりは、しないわ」
 笑うホンファに、ヴァレアは一呼吸の間を要し我を取り戻してから、そう言ってみせた。だが、抵抗はしないというホンファの言葉に安堵もしていた。ビレンならホンファの行動次第では確かに引き金を引くこともするかもしれないと思ったからだ。"自分だって初めて会ったとき、そう言われたではないか?"
 会えなくなることは嫌だったが、その辛さなど、この少女が撃たれるような事態のそれとは比べ物にもならない。
 ホンファはヴァレアの言葉を信じたのか信じていないのか、なにを読み取ることもできない曖昧な笑みを浮かべ、ベッドの枕を引っ剥がした。そしてその下から、小さなガラスの瓶を取り出す。ウィスキーなどの小瓶によく似ていた。
「なぁに……それ」
 ヴァレアはビレンの警告を思い出し、喉が詰まるような緊張に襲われた。だがホンファはなにもないというふうに首を振る。
「心配ない、ただの空き瓶よ。ほら」
 ホンファは灯りに透かすように瓶をかざし、ヴァレアの目の前で振ってみせた。言うとおり、中は空っぽに見えた。
 ついでホンファは瓶の蓋に手を掛ける。ヴァレアが思わず小さく声を上げるが、制する間もなく蓋は開けられた。しかし、やはり何事も起こらなかった。
「ね? ほら。なにもないね」
 瓶の口からは微かに酒の匂いが香っただけで、確かにそれ以上のなにかがあるようには思えず、ヴァレアは頷かざるを得なかった。
 ホンファは服の留め具に手を掛け、胸元を軽くはだけると、その中に瓶を押し込んだ。瓶はわきのほうへまわったようで、一見しただけではなにも持っていないように見えた。
「わたしの荷物だから、持って行くだけよ。そろそろ時間か」
 ホンファは襟を正してから枕を元の位置に戻し、ベッドサイドの時計を見ると、床に足を下ろしてベッドの縁に腰掛けた。ヴァレアもその隣に並ぶ。
「楽しかったよ、ヴァレア」
「……うん」
 ベッドの下から黒の靴を取り出しながら、ホンファが言う。ヴァレアは掠れる声で同意を返す。別れが近いかもしれないと思うと、どうしても切なさを覚えて仕方がなかった。
 ホンファは靴を履き、そんなヴァレアの顔を横から間近に覗き込んだ。そしてキスでもするように耳元に唇を近づけ、「また会いましょう」と囁いた。

 時計の秒針は、ちょうど十五周を終えた。
 十五分きっかりで、なんの合図もなくビレンが扉を開ける。彼は寄り添って座る二人の姿に少し不愉快そうに眉を寄せたが、それだけだった。
 ホンファはやってきた警官に連れられ、おとなしくパトカーに乗り込んでいった。特にヴァレアに視線を向けることもなかった。警察が建物を調べても、結局ホンファの他にそれらしい人間は見つからなかった。
 ヴァレアもビレンたちと車に戻り、ホンファという少女とどんな会話を交わしたか、聞かれるままに報告した。
 彼女が持っていた小瓶のことも話したが、それが空だったことと、武器になるようなサイズでもないことから、ビレンたちも怪訝そうにはするものの、あとは警察が判断するだろうとして、それほど気に留めないようだった。
 一通りの報告が終わると、車は事務所へ向かって走り始める。
 ヴァレアは後部座席に、どこかぼんやりとした頭で座っていた。無意識に唇を指がなぞる。
 初めて経験した口付けのことと、耳に残る「また会いましょう」という言葉のことは、彼らに告げていなかった。


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