〈85年5月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 彼らは事務所に帰って、ヴァレアは早々に自室へ引っ込んだ。
 ビレンとビリーはワルターへの報告を終え、しかしオフィスで紅茶とコーヒーの一杯を飲み終える暇もなく所長室に呼び戻される。
 そしてあの東洋人の少女が逃げ出したと、そう聞かされた。


〈85年5月末 W-14ストリート〉

 ヴァレアは新聞配達のアルバイトを終えて、十四番街を歩いていた。
 新聞のインクで黒く汚れた手は、洗っても独特のかさつきや痺れが指先に残る。だがそれも労働の証のようで、ヴァレアはその感覚が嫌いではなかった。
 今はこうやって自分の生活費の足しを稼ぐだけだが、いつかワルターの仕事を手伝うことができるようになる日を彼女は夢見ていた。新聞配達はワルターの仕事を手伝うための"近道"であるとはいえない。しかしそれでも良い勉強になると、ワルターが言ってくれたことを彼女はいつも思い出す。
 確かに、ひとと関わることから遠かったヴァレアには、都会(この町でもヴァレアにとっては充分都会なのだ)での新聞配達も新鮮な経験の宝庫だった。配達のついでにこっそりと新聞の見出しを眺めることも、文章や世情の勉強になった。自分の中になにかが蓄積していくことは、高揚感を覚えることだった。
 仕事の帰り道、ヴァレアはいつも、きっといつかワルターの役に立とうという、その思いだけを抱えて歩いていた。だから自然と足取りは軽く、それでいてしっかりとしたものだった。しばらく前までは。
 今は違っている。もちろんその思いが消えたわけではなかったが、思考を占める唯一ではなくなっていた。その歩みも、どこか意識が散漫な人間のそれだった。
 先日のホンファと名乗る少女との出会いが、ヴァレアの感情を不安定なものにしていた。その感情がなんであるのか、ヴァレア自身も理解できずにいる。これが対等な立場で抱く友情なのだろうと思ういっぽうで、それだけではないようにも思えてならなかった。敬愛でもないだろう。だとすれば恋愛感情かと考えたが、ヴァレアが現在、そうと認識している――つまりはビレンに対する憧れめいた感情とも、また違っていた。
 しかしヴァレアは少なくとも、ホンファに会いたいと思っていた。それだけははっきりと自覚できていることだった。
 ヴァレアは事務所とは反対の方向に向かって歩道を歩く。まっすぐ帰る気分にならないからで、この散歩は最近の日課になっていた。
 この辺りは住宅街ではない。アパートメントは多少なり散在するが、子供のいる家庭が入居していることはあまりない。目立った娯楽施設もないから、若者が集まるわけでもない。すれ違うのは大人ばかりだ。だからこそいっそう、ヴァレアはホンファに会いたかった。
 ホンファが逃げ出したと聞かされたことで、あの少女は警察から逃れる必要があるだけの人間であり、関わるべきではないのだと改めて認識しながらも、"逃げてくれたからこそ"、また会えるかもしれないという期待が願望となって自分の中に存在することを否定できなかった。反社会的で利己的だと感じるその思いが、ヴァレアの気分を暗くする。
 気が付くと、あと三ブロックも先へ進んで東へ行けば引き金通りの入り口へ辿り着く位置までヴァレアは来ていた。いつもこの辺りで引き返すことにしているヴァレアは、少し引き金通りの方角を眺めてから方向転換をする。
 そして数歩進んだちょうどそのつま先に、横から小石が飛んだ。驚いて身構えながら石の飛んできた方向を見る。
 建物と建物の間の狭い路地裏があった。日光も足りず薄暗いそこに人影が見えた。子供の姿だ。小柄で、少年のような格好をして、ベースボールキャップを目深に被っている。
 ヴァレアは自分の身体が微かに震えだすのを感じた。言葉を紡ごうとする唇が空気だけを漏らして動く。
 影は帽子のつばを少しずらして、瞳をわずかに覗かせた。化粧はしていないが、それでも赤く形の良い唇が笑みを作った。
 その瞬間、ヴァレアは路地裏に飛び込んでいた。


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