〈89年8月同日 W-15ストリート・ビルニ階〉

 二人は慎重に二階へ上がる。待ち伏せされて狙い撃ちされるようなこともなく、廊下は静かで一見すると誰の人影もなかった。部屋のドアは開いているものもあれば閉じているものもある。このまま二階を素通りしてしまいたかったが、残りの三人(あるいは四人)がどこにいるのかわからない以上、地道に廊下を進んで確かめてゆくしかないはずだった。
 ひとつ目のドアの両脇に立ち、今度はビレンがドアノブに手を伸ばす(先ほどと違って両手が塞がっているのはビリーで、そうでないのはビレンだ)。
 それはほんの微かなものだった。二人はドアの向こうにひとの気配を感じた。空気の流れる、音にならぬ音を聞き取った。だが、もはや先制の間に合うタイミングではなかった。
 硬質で、それでいて高い音が二人の耳元で破裂する。鈍く光る斧が木製のドアを破ったのだ。ドアノブごと、ビレンの腕を断ち切ろうとするかのように。
 ビレンはとっさに手を引いたが、ドアを突き出た斧は彼の左腕を捕らえた。刃は上着とシャツに大よそを取られ、それでも生身の腕まで届く。肘より少し下の辺りに、ビレンは熱い痛みを感じた。血液の飛沫を視覚する。
 ビレンは半歩身を引いて、銃を握った右手の付け根で傷を押さえる。幸い深くはなく、太い血管もやられていない。
「問題ない!」
 ビレンが自分の状態をビリーに報告するのと重なって、ドアが中から蹴り破られた。同時にビリーが身を低くし、すり抜けるように部屋へ飛び込む。
 部屋の中には二人の男がいた。ひとりはこれまでの連中と変わらない年恰好の若者で、斧を振るったのはこちらだ。
 もうひとりは、ビレンたちよりはいくらか若くも見えるが、他よりも年かさだ。背はそれほど高くないが体格がよい。そして他の連中と比較して明らかに場慣れした顔つきをしている。おそらくはこの男が『リーダー』なのだろう。右手にはコンバットナイフを握っていた。
 ビリーはその男目掛けて、担いでいた対物ライフルを、体当たりがわりに銃床の側から投げた。リーダーの男は腕で身体を庇い、倒れこそしなかったが足はよろめいた。男の右膝が伸びた瞬間を狙って、ビリーの重い蹴りが膝頭に入る。関節に逆らう衝撃に、低い叫び声が上がる。
 ナイフならビリーも持っているし、いざとなれば銃もある。なにより、射撃はともかく接近戦となればビリーは十二分に信頼できる。元傭兵相手とはいえ――もっとも、その真偽や程度のほどはわからないが――あの男の拘束はひとまずビリーに任せておけるとビレンは判断した。残るはもうひとりの男の始末だ。
 ビリーに扉を突破されて、男はそちらに意識を向けかけていた。撃つこともビレンは考えたが、男の身体は部屋の側にある。その奥にはビリーがいる。男の身体を突き抜けた弾丸が、ビリーに当たらない保障はない。
 ビレンは男の持つ斧の柄を掴む。刃のすぐ下だ。そのまま斧を奪ってしまえれば理想的だったが、この若者はあいにく、それまでの連中よりも冷静だった。即座にビレンに意識を戻し、斧を握る手に力を込めてそれを拒む。反対にビレンは傷の痛みで掴んだ手にどうしても力が入りきらず、しかも傷口から伝った血のぬめりもあった。右手は銃で塞がっている。それでもなんとか、少なくとも斧が有効に動くことだけは抑え、一瞬の膠着状態が訪れる。
 すぐに無骨なコンバットブーツを履いた男の足が、ビレンの股間を蹴り潰そうと上げられた。ビレンはとっさに身体を捻り、それを腿で受ける。鈍く、しかし強い痛みが襲ったが、骨に影響が出たようには感じなかった。蹴りによって男が片足立ちの体勢になった隙に、ビレンは斧を自分のほうへ引き寄せる。同時に銃のグリップの底を、男の眉間に打ち付けた。鈍い音がし、急所を強打された男が息を詰まらせるような声を漏らす。斧を握る力も弱まる。そのまま男を廊下へ引きずり倒しながら、ビレンは視界の端、廊下の先に、もうひとつの人影を見た。
 男だ。
 上階には三人いて、ここにいるのは二人。最後のひとり。
 なにかを構えている。ハンドガンよりも大きい、そう、ビレンも考えたショットガンだ。予想的中の喜びなどまるでなかった。
 ビレンも銃を構えようするが、その右手に被さるように苦悶した男が倒れてくる。
 間に合わないと、ビレンは思った。
 それでも諦め、アクシデントに硬直するようなことはしない。男の身体の下から必死で右手を引き抜こうとし、そして銃声を聞いた。
 廊下の先で小さく散る血液の色。男の悲鳴。二発目の銃声。まさに引き金が引かれようとしていたはずの凶器が、三人目の男の手から弾けるように落ちるさま。
 蹴り飛ばされて床をすべる、落ちたショットガン。
 ビレンはそれらを聞き、それらを見た。
 狼狽する男に体当たりをする新たな人影を、ポニーテールが跳ねる黒髪の流れを、見た。


「どうした、誰だ?」
 部屋の中では、ビリーが気を失った『リーダー』に馬乗りになっていた。ナイフでの格闘の傷だろう、手が少し血に濡れているが、いずれもかすり傷のようだ。うつ伏せの男の腕を背中に捻り上げ、後頭部に銃を突きつけている。油断さえしなければ、銃は充分に拘束具のかわりになる。
 ビレンは廊下の先から視線をはずしきれないまま、男から斧を遠ざけ、やはりその両腕を背後で押さえながら答える。
「……ヴァレアだ」
「なんだって?」
 ビリーもさすがに驚いたように眉を片方上げた。
 ビレンの視線の先で、ヴァレアはショットガンの男の両腕を掴み、その身体を引きずって(幸い男は比較的小柄だった)近づいてくる。
 ダークグレーのパンツスーツに身を包んだ彼女の姿は、もはや少女という一言で表現できるものではなくなっていた。
「ビリーもいるの? 無事?」
「無事だ」
 足を止めないままヴァレアがビレンに尋ね、その声を聞いたビリーが先に部屋の中から答えた。
「そう、よかった」
 一瞬安堵の表情を浮かべたヴァレアの顔は、ビレンの左腕の負傷に気付いて青ざめる。今にも駆け寄りたそうな様子を見せたが、しかしそれを堪えて首を振った。WBI事務所の所員として行動するための努力だと、その様子を見たビレンは思った。
「ちょっと待って、時間がないの。先に連絡しなくちゃ」
 ヴァレアはそう言って、腰の無線機を手に取った。無線独特の雑音が小さく漏れる。
「――ハロー、ハロー。カークです。ガートラン、マイヤー両名と合流しました」


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