〈89年8月同日夜 W-14ストリート・WBI事務所・ビレン=ガートランの私室〉

 ビレンは自室の椅子に座って、見るともなく壁を見つめていた。時刻は深夜近い。
 怒りはもう概ね引いている。結局昼間の若者たちは、ストリートギャング未満ですらあるような未熟な弱小集団だった。グループとしてはろくな前科もなかった。引き金通りを拠点として、これから活動を広げていこうとしていたのだろう。リーダーの男は、確かに傭兵経験はあったようだが、早々にその世界から抜け出したくちで、プロフェッショナル意識に欠ける人間だった(ビレンが嫌いな数多いタイプのうちのひとつだ)。それでも力を誇示することにだけは執着があり、対物ライフルなどの派手な火器をちらつかせて不良少年たちを集め、勢力を築こうとしていたというのが事の実態だ。そして射撃の訓練に参加するため警察に出向いていたヴァレアが、引き金通りの騒ぎの連絡を聞いて警官に同行したというなりゆきだった。
 外に残っていたという見張りも彼女が片付けたらしかった。銃は使わず格闘術で無力化させたようだ。性別による体格や筋力の差を埋められる程度(年齢はどうせ、あの不良少年たちとそれほど大きく変わらない)の技術は、ヴァレアはビリーからしっかりと仕込まれている。だが素人の少年とは言え、武装した相手との実戦ができるようになったという事実は大きかった。
 ビレンは包帯の巻かれた傷口を軽く押さえた。ヴァレアの成長が証明されたことを喜ぶべきはずなのに、心のどこかに憂いを感じる。ヴァレアが危険に身を投じることへの懸念ではない。それはビレン自身、とうに受け入れていた。ならばこれはなんなのかと、深い思案に沈もうとして、控えめなノックの音によって引きずり上げられた。
「ビレン、起きてる?」
 扉の向こうから聞こえたのは、低くひそめた、窺うような当のヴァレアの声だった。
「起きているし、鍵も開いているよ」
 ビレンはわずかな動揺を感じたが、椅子に座ったままそう答える。ややあって静かに扉が開き、ヴァレアが顔を出す。片手に救急箱を提げていた。
「あのね、包帯は、こまめに換えたほうがいいって言うから」
 その救急箱を軽く掲げ、ヴァレアが遠慮がちに言った。あるいはそれは口実かもしれないとビレンは思い、それでも受け入れる相槌を打つ。ヴァレアはほっとしたように笑って部屋に足を踏み入れ、開いたときと同じように静かに扉を閉めた。
「どうしようかな。ベッドに座ってくれる?」
「ああ」
 ビレンは立ち上がってベッドへ移動し、その端に腰掛ける。それを見届けてから、ヴァレアも隣に腰を下ろした。パイプベッドが二人分の体重を受けて微かに軋む。
 ヴァレアは昼間のスーツなど当然とうに脱いでいて、今はTシャツとジーンズのラフな格好をしている。そうするとやはり、ティーンの少女そのものだ。
「ワルターに怒られなかった?」
 ビレンがシャツの袖を捲くるのを待ちながら、ヴァレアが少し冗談めかした。
「少しね。だが結果としてはそう悪くないから、それほど絞られずには済んだ」
 その答えに小さく笑い、ヴァレアはビレンの腕に巻かれた包帯をそっと解いてゆく。
「私は、ちょっと褒めてもらったわ」
 はにかみながら呟くヴァレアの顔は見るからに喜びに満ちていて、それでいて微かな痛みを含んでいるようにもビレンには思えた。おそらくは人間に向けて引き金を引いたその手ごたえが、まだ強くヴァレアの全身を支配しているのだろう。そしてその経験が、これからも積み重なりこそすれ、なくなりはしないことを理解しているのだ。
 生々しい傷口の周辺にこびり付いた血を、ヴァレアは消毒液を染み込ませたガーゼで優しく拭う。
「痛む?」
「いや」
「影響が残るような傷じゃなくてよかったわ、本当に。ビリーもたいした怪我はなかったし」
「同感だ」
 真新しいガーゼを傷口に当て、真っ白な包帯を巻きつけ始める。時折腕に触れるヴァレアの指先は、銃などを扱うぶん普通よりは硬かったかもしれないが、それでも充分に女性の柔らかさと繊細さを持つものだった。
「……私、嬉しいのよ。やっと、これから実感が持てるかも知れないって、やっとワルターにとってのビレンやビリーと同じになれるかも知れないって、思うから」
「ああ、私もそう思う。おめでとう」
 ヴァレアは返事のかわりに微笑みを返して、包帯の先端をはさみで切って結んだ。ビレンは具合を確かめるために肘を軽く曲げ、そして伸ばす。清潔な包帯が心地良かった。その間にヴァレアが古いガーゼの類を傍のゴミ箱に捨て、膝の上の救急箱を閉める。ビレンが感謝の言葉を口にし、ヴァレアはそれに首を振ったが、腰を上げようとはしなかった。少しの沈黙が訪れる。
「……私は、役に立てた?」
 ヴァレアの声は、静かで、そして強張っていた。ビレンが顔を上げると、彼女は痛いほどまっすぐにビレンを見つめていた。
「……ああ。少なくとも、私は救われた。感謝している、とても」
 ビレンはその視線を受け止めきれず、顔を伏せて答えた。言葉そのものは本当のことだった。ヴァレアの助けがなければ、ビレンは散弾をその身に受けるはめになっていただろう。あるいは命を落としていたかも知れない。ヴァレアが恩人であるのは事実だ。
「私は、……私は、ビレンと同じところに立てるようになった?」
 感じている憂いの正体に、もはやビレンは気付かざるを得なかった。
 ヴァレアが、今もなお自分に対してある感情を抱いていること。それはビレンが考えていたような一時的なものでは既になく、もっと明確な情熱を伴うものとして確立していること。そして彼女が子供という立場から脱却し対等な一個人として存在する以上、それらに対しこれまでのような見て見ぬふりなどできないことにだ。
 ビレンは言葉を探したが、しかしそれを見つけることはできなかった。視線だけをヴァレアに移すと、彼女と目が合う。ヴァレアは穏やかさの中に、ほんの一滴二滴、異なる色の混じる微笑みを浮かべた。答えを求めるわけではなかったが、それでも心のどこかではなにかを答えて欲しかったという消しきれない思いが生む切なさと、拒絶を言葉として聞かずに済んだことに対する安堵の表れに違いない。
「私、これからも頑張るわ。信頼に足りて、そして信頼に応えられる人間になりたいもの。私たちを救ってくれたワルターのために」
 ヴァレアは、さっきの話はもう終わったとばかりに救急箱を手にして立ち上がった。ヴァレアの根底にある動機は今もそこから揺るがない。それが第一であることは間違いないだろう。だがその中に自分の存在も混じっていることを、ビレンは認めるしかなかった。
「私もう戻るね。遅くにごめんなさい」
「いや、助かったよ。ありがとう」
 ビレンは視線を向ける先を曖昧にしたままで、そう答えるのが精一杯だった。ヴァレアは目を細めて少しはにかむように微笑み、扉へ向かう。
「それじゃあ、おやすみなさい。また明日ね」
「……ああ、おやすみ」
 そして扉の閉まる音がした。

 ひとりになったビレンは息を大きく吐き、両手をベッドについた。ヴァレアが座っていた場所には温もりが残っている。
 これからは向き合わねばならないと、ビレンは思った。ヴァレアと、そして自分自身に。


〈5〉89年8月――銃と共に成長は示される。(了)

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