〈89年9月 W-14ストリート・WBI事務所・ビレン=ガートランの私室〉

 ベッドの中で、ビレンは目を覚ました。独特の急な覚醒だった。夢によって強制的に眠りを断ち切られたそれだ。
 視界の先は暗い自室の天井。深く、長い溜息が意識せずとも吐き出される。首を動かして枕元の時計を見てみると、まだ午前四時にもなっていなかった。
 気だるい身体を片手で支えて、上半身を起こす。顔をしかめ、目元をもう片方の手で覆った。もう一度深い溜息が出る。毛布をはねのけてベッドに腰掛け、サイドテーブルにある水差しとコップを手に取った。水を半分ほど注いで、渇いた喉に流し込む。
 悪夢ではないが、好ましくはない夢を見た。ヴァレアとベッドをともにする夢だ。
 夢というものが、必ずしも願望を表すものではないことをビレンは知っている。寝言で恋人以外の名を呼んだとしても、浮気どころか心変わりの可能性を示すものですらないことと同じだ。ビレンはヴァレアに欲望を感じているわけではなかった。だがこんな夢を見るということは、やはり彼女を一個の女性として認識するようになったのだと思った。
 ビレンはヴァレアが成長を示して見せたあの夜以来ずっとそれを考えていて、しかし今でもヴァレアに対する答えは出すことができないままで、そして夢はあまりに生々しかった。
 水差しとコップをテーブルに戻し、再びベッドに横たわる。身体の生理的な反応が不快だった。
 ビレンは、恋愛という名のもとにひとを心から愛した経験がおそらくない。彼にも恋人がいたことは幾度かあるが、彼女たちを愛していたとはいえなかった。彼女たちに対する関心も持ちきれず、ともにいる意義を見い出せなかった。少年時代の淡い初恋も、長じて思い返せば、満たされない母性への憧れが本質のすべてであったように思えた。
 しかしビレン自身、そういった自分の恋愛の経歴になんら不満を抱いていない(彼の相手となった女性たちにとっては迷惑な話だったが)。愛する人間など存在せずとも、孤独感も自分の人生に対する不足感も持たなかった。そんな人間は別段稀有な存在ではない。彼も敬愛するワルターがおり、そして少ない友人がいればそれで充分だった。
 事実、今もそれは変わらない。だからヴァレアが向けてくる特定の好意を拒否することは、おそらくビレンにとってそう難しくないだろう。
 だが、とビレンは思った。
 ヴァレアはある意味で特別な存在だ。これまでの女たちと違い、同じ場所に、同じ世界に立っている。ワルター=バーンズというひとりの男のために生きる価値観を共有できる。そして既に彼女は、ともに時間を過ごすことが苦ではない数少ない人間のひとりだ。
 そんなヴァレアなら、もしかすると愛することができるのかもしれない。少しの時間は掛かったとしても。
 現状に不足はない。それでも敢えて踏み出してみてもいいと思えるものが、ヴァレアにはあった。いつかのあの日、そんな可能性をわずかに感じた記憶がビレンの中に蘇る。
 それはある種の好奇心でもあるだろう。自分がひとを愛せるかどうかということに対しての。そんな実験めいた動機をヴァレアに話せば、彼女はどう思うだろうかとビレンは考える。腹を立てて幻滅するだろうか、それとも呆れたように穏やかに笑うだろうか。どちらにしろ、"結果"が出ればそのことは打ち明けようと思った。そして結果は、このままヴァレアと向き合ううちに、おのずと出るはずだ。
「……馬鹿な話だ」
 険しかったビレンの表情に、少しばかり苦笑が混じる。己の利己的な思考への独り言が漏れた。ヴァレアが長く抱き続けてくれている感情に対して、自分の考え方はなんとそぐわないものなのだろうと。
 そんな好奇心を抱くこと自体が、彼の中で起こっている明確な変化であると、ビレンは認識しきれていなかったからだ。
 ビレンは一度は目を閉じたが、結局起き出すことにしてすぐにベッドから降りた。夢の続きを見るのはごめんだった。
 壁一枚隔てた向こうで、おそらくヴァレアはまだ眠っているだろう。
 夢の記憶を振り払うが、それでも彼女と顔を合わせればいささか気まずい思いをするに違いない。ビレンはそれが少し憂鬱だった。


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