〈89年12月同日 W-14ストリート〉

 手続きは短時間で済み、二人は銀行から外へ出る。ヴァレアが少し物言いたげな眼差しをビレンに向けて、ビレンはそれを曖昧な苦笑で受けた。さきほどの女の視線に、やはりヴァレアは気が付いたのだろう。
「疲れているかい、ヴァレア? 大丈夫なら、軽く散歩でもどうかな」
 車の通り過ぎる道に視線を流しながら、ビレンはそう提案した。ビレンがそんな申し出をすることは今までになかった。ヴァレアは面食らったような顔をして、二、三度まばたきをする。
「疲れているなら、もう事務所に」
「待って、違うの、違うの。ちょっとびっくりしただけで……その、散歩は私も好きなの。行きたいわ」
 視線を戻したビレンの言葉を遮るように、ヴァレアが慌てて首を振る。遠慮がちで少し恥ずかしげなその様子は、彼女がごく小さな子供だった頃をビレンに思い起こさせる。けれど目線の高さはもう随分違う。ヴァレアの身長はほぼ伸びきったようで、近頃変化は見られなかったが、きっかり六フィート(百八十三センチ)あるビレンと四、五インチ(十センチ強)程度の差だ。ヴァレアを見下ろしていたあの距離が、いまさらながらひどく昔のものにビレンには感じられた。


〈89年12月同日 W-14ストリート・公園〉

 銀行からさらに北へ五分ほど行くと教会があり、その傍には公園がある。ビレンとヴァレアは連れ立ってそこに足を踏み入れた。ビレンも特に目的地があったわけではなく、それならばこの公園がいいとヴァレアが言ったのだ。
 環境面での開発は進んでいるとは言いがたい十四番街であるから、申し訳程度に作られた、さほど規模の大きくない公園だ。それでも通りにはない空間の開放感と緑がある。時間帯のおかげで、人影もそれほどない。
「ワルターとはね、ときどき来るのよ。教会の帰りなんかに」
 ヴァレアはそういった家庭で育ったらしく、信仰らしい信仰は持っていなかったが(いわく、自宅に聖書は一冊だけあったが、その読み聞かせをされた経験はないに等しいと言う)、信仰に厚いワルターに付き添って日曜の礼拝に顔を出すことがたまにあった。
「初めて来たのも、そういえば十二月だったわ。買ってもらったベーグルサンドがすごくおいしかったの」
 舗装されたランニングコースの脇を歩きながら、ヴァレアが懐かしむように笑う。ジーンズに丈の短いダッフルコートを着て、白いマフラーをぐるりと首に巻き、小さなバックパックを背負わず両手で提げている彼女の姿は、まるでハイスクールの生徒そのものだった。身体のサイズはもう大人のそれと変わらないのに、それでいてどこか小作りな細部は幼さを残し、この時期の少年少女独特のバランスを作っていた。
 ヴァレアの視線が、ベーグルとソフトプレッツェルの屋台に流れる。
「食べるかい?」
「ううん……そうね、食べたいけど、向こうで食事してきちゃったの。おなか一杯だわ。ビレンは?」
「私もいい」
「暖かい飲み物があればいいのにね。コーヒーの屋台しかないんだから」
 コーヒーを好まないビレンを気遣ってか、ヴァレアはそう言って眉を下げた。
「いよいよ寒くなれば、事務所に帰ればいいだけだ」
「……そうね」
 ヴァレアはビレンを軽く見上げて笑い、そして沈黙が落ちる。ビレン自身もそうだが、ヴァレアもそれほど口数が多くない。ビレンはそのことを好ましく思っていた。彼は静かな時間が好きだった。
 だが今日の沈黙は、普段とは少し違う類いのものだ。
「……さっきのひとは?」
 二人分の足音がしばらく続いた後、ヴァレアが口を開いた。意を決して、といった様子の緊張した声が、不謹慎ながらビレンは少しおかしかった。
「私の、前の恋人だ。本当の意味で、そう在れたかどうかはわからないけれどね」
「どういうこと?」
「彼女の視線の厳しさを見ればわかるだろう。私はつまり、そういう仕打ちをしたということだ。彼女に対して。彼女は私を愛したが、私は彼女をまるで愛することができずに、彼女のプライドを傷つけた」
「だって、そんな……だって、恋人だったんでしょう?」
「本当の意味でそうだったかわからないと言ったろう?」
 ヴァレアが立ち止まり、ビレンは足を止めなかった。
「私はそういう人間なんだ。軽蔑したかい?」
 何歩か進んでから振り返り、ビレンは苦味の含まれる笑みとともに言った。ヴァレアは俯き気味にぎゅっと唇を結んでいたが、少しの間を置いて首を左右に振った。
「そうか」
 それだけの相槌を打ち、ビレンは道をそれてひとつのベンチへ向かう。ヴァレアはまだ同じ場所に立っている。
「ヴァレア、おいで――いや、こっちに来てくれ」
 ベンチの前に立ち、片手を差し出すような仕草でヴァレアを招きながら、ビレンは言葉を言い替えた。子供に向けるものとは違えなければならないのだ。
「話がしたいんだ、君と」


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