〈89年12月同日 W-14ストリート・公園〉

 並んでベンチに座ると、おのずと距離ができる。それは彼らが友人ではあっても、身を寄せ合うほどに親密な間柄ではないからだ。ビレンがこの国の人間には珍しく(彼は正確にはこの国の人間ではなかったが、それを差し引いたとしても)日常のスキンシップをまったく好まないことも関係しているかもしれない。
 ヴァレアは緊張した面持ちで、バックパックを膝の上で抱えている。
「幻滅したのなら、いつでも遠慮なく言って欲しいんだが」
 ビレンは前屈みに両手を組んだ姿勢で、そう切り出す。ヴァレアは少し戸惑ったような様子を見せ、曖昧に頷いた。
「私はいままでずっと、ああいった関係しか築けずにいた。期待になにひとつ応えない私に彼女らは皆失望し、おそらくは悲しみ、そして私を憎んで関係は終わる。私が愛情や優しさという恋人にとって必要な当たり前のものを持たなかっただけじゃない。彼女らを攻撃したり支配したり、彼女ら自身を疎んだり腹を立てたりする、そんなマイナスの行動や感情すら示さなかったからだ。私がただただ無関心だったからだ。それを何度か繰り返してきた」
「どうして?」
 どう、と口にしかけた声は詰まって音にならず、一度唾を飲み込むように喉を鳴らし、ヴァレアは言い直した。
「どうしてだろう。私にもよくわからない。酷い人間だ」
「……辛いわ」
 ヴァレアが地面から足を浮かせ、バックパックに顔を埋めながら膝を抱えた。呟く声は少し震えている。
「どのことが?」
「わからない、たぶんいろんなことが。……好きなのに、愛してるのになんの関心も示してもらえないのは、きっとすごく辛いわ。悲しい。悲しくてたまらない。気持ちを感じられないことは、とても……」
「私は、それを何人かの女性に味わわせたんだ」
「私は、いったいどうしたらいいのかしら?」
 ヴァレアの言葉は自問であるように聞こえた。相変わらず顔を伏せていて、その表情は窺えない。
「だから、私を軽蔑するのだったらいつでも」
「そうじゃないわ!」
 バックパックに遮られてくぐもってはいたが、一段強い声をヴァレアはあげた。
「そうじゃないの……そうじゃないけど、ただ辛いだけなの。少ししたら、きっと治まるわ。だからそんなふうに言わないで」
 ビレンは静かに溜息を吐き、頭を垂れた。組んだ手の親指で手持ち無沙汰に指の股を擦ると、革の軋む音が鳴る。気まずいほどに長い沈黙が置かれた。それでもビレンはただ待った。
「……ビレンは、どうして私にそんな話をするの?」
 冷たい外気の流れに頬がぴりぴりと痛み始める頃、ようやくヴァレアがぽつりと言った。
「君に対して誠実でいたいと思ったからだ」
 ビレンは顔をあげ、しかし正面を向いた状態で答えた。
「なぜ?」
 ヴァレアの声が少し揺れる。おそるおそるといった様子で顔を浮かせるのが、ビレンにも視界の端に見えた。
「誠実でいたいと思うことが理由では駄目なのかい?」
「……やっぱり、私はふられてるのよね」
 ヴァレアが抱えていた膝を離し、両足をすとんと地面に落とす。
「……そうか、そう取れるわけか」
 両手を解き、身を起こして、背中をベンチへ預けながらビレンは呟いた。
「そうとしか取れないわ。誰も愛せないって、そう言ってるんでしょう?」
 俯いているヴァレアの表情をビレンは盗み見る。いかにも傷ついて、だがそのことをできるだけ表に出すまいと唇を噛み締めている様子に、胸が痛むような錯覚を覚えた。それを抑えるために、ビレンはネクタイの結び目を強く握る。
「まぁ、確かにそうなんだ。そうなんだが……」
 声が喉に引っかかり、ビレンは咳払いをした。それを口にすることは自分が予想していたよりも居心地の悪いことのように思えた。
「今まではそうだったし、もしかすると今もそうなのかもしれない。でも、君のことなら愛せるかもしれないと、そう思っているんだ」
 ヴァレアの両目が、ゆっくりと大きく開かれる。それから派手にまばたきをして、信じられないといった顔でビレンを見た。
「……なぜ?」
 再び問うヴァレアの声は酷く掠れていた。ヴァレアも自分でそれに気付いたようで喉に片手を添え、いっぽうのビレンは再び両手を組む。
「君は同じ世界で生きられる人間だし、私はもう君と過ごす時間を厭わしく思わない。そして君は私を慕ってくれた。もっとも今日のことでそれが変わる可能性はあるが、もはやそれは私にとってのきっかけに過ぎないから別に構わない。私は今も、女性を愛することが私の人生において特別必要な要素だとは思っていない。それでも、それでもだ。ヴァレア、君のことなら愛せるかもしれないと」
「試したいってこと?」
 ヴァレアが繋いだ言葉に、ビレンは思わず小さく笑った。
「そうだ、そのとおり。言いにくいことを言ってくれてありがとう。とにかく私はそう思っている。その気持ちは強くなっている。君が受け入れてくれるかどうかは別にしてね。私はずっと、君の気持ちを無視し続けてきた。だが君はもう子供ではなくなって、私はその現実を受け入れようと考えた。考えていた。この数ヶ月の間。そして出た結論がこれだ。いくら私でも、これが女性を口説く理屈でないことは理解している。だが、もう伝える必要があると思ったんだ」
 ヴァレアはどこかぼんやりした表情でビレンを見つめていたが、不意にふっと頬を緩めた。それから両手で顔を覆い、身体を前に折った。小さな、力のない笑い声がビレンの耳に届く。
「……ビレンったら。ロマンチックでもないし、別に必要ないうえに愛せるかどうかわからないけど、なんて口ぶりだし。私、今までで一番、ビレンって不器用なんだわと思ったわ。でも、私も鈍いのかしら?」
 ふふと吐息のような声を漏らしながら、ヴァレアはすぐに身を起こす。そしてまたビレンを見つめ、泣き顔のような微笑を浮かべた。
「だって、それが嬉しいの」
 今度はビレンが驚く番だった。それが怪訝そうな表情になって表れ、それを見たヴァレアがまた笑う。
「もう、なんでそんな顔するの? 私は幻滅も軽蔑もしてないのよ」
 ビレンは眉間に皺を刻み、片手で額を押さえた。仕方ないと思いこそすれ、積極的に拒絶を望んでいたわけではなかったはずなのに、いざそれから外れた反応を示されると、どう言葉を返していいかわからなかったのだ。
「なにか言ってよ、駄目、待って、やっぱりなにも言わないで。私パニックになってるの。どうしたらいいかわからないの。ビレンがあんな話もするから、そのひとたちのことを考えたら私だけがって思うもの、喜んでいいのかどうかもわからないわ。もう!」
 ヴァレアはビレンの袖を叩くように掴み、身体を傾がせて彼の二の腕の辺りに顔を伏せた。挙動が少し乱暴だったが、腹を立てているというよりは、羞恥と混乱で感情を持て余しているといった様子だった。ビレンは未だ困惑混じりにヴァレアを見下ろしていたが、ふとどこかから湧き上がるように、自分の口元に微かな笑みが浮かんだことに気が付いた。
 ビレンの視線を感じたのか、ヴァレアも複雑な表情でそろりと顔をあげる。ビレンはその顔を見て、歪めるように片眉を上げ、しかし目を細めて笑みを深くした。
「キスをしても?」
 ビレンの問いにヴァレアは反射的に唇を結び、一度目をそらし、そして顎が揺れるか揺れないかといった程度のごくわずかな動きで頷いた。
 ビレンはヴァレアの身体から遠いほうの手を彼女の顔へやる。寒さのせいだけではない赤みが差している頬を指先でそっと撫でてから、手のひらを耳元に添える。そのまま顔を寄せると、ヴァレアは恥ずかしさからか、おそらく無意識に、少し抗うような仕草をした。
「……別段、初めてでもないんだろう?」
 一瞬ビレンを虚ろな不快感が襲い、それが言葉となって形を作った。ビレンの中でどろりと顔を出したのは、ヴァレアとあの忌々しい東洋人の少女のことだった。あの少女が消えた後にヴァレアから語られた内容やその空気から、彼女らの関係が明らかにただの友人の域を超えていたことをビレンは知っていた。
「そんなふうに言わないで……」
 ヴァレアも、ビレンの言葉がそれを指していることがわかったのだろう。複雑な悲しみに表情を歪める。
「……すまない、失言だった」
 ビレンは今度こそ、罪悪感で胸が痛むという、およそ自分とは縁遠かったはずの感覚を味わった。そして先ほどの不快感があのホンファという少女に対する嫌悪だけから湧いたものではなく、おそらくは子供じみた嫉妬から生まれたものであったのだと気付いた。ヴァレアに口付けながら、努力をするまでもなく自分は既に彼女を愛するようになっていて、今までの恋人たちを冷淡に傷つけた罪はいつかそれだけの罰となって返ってくるかもしれないと、ビレンはそう感じていた。


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