〈93年2月同日 W-14ストリート・オープンカフェ〉

 ヴァレアはゆっくりと首を振り、意を決して顔をあげる。
 ヂュ=ドゥランはやはり微笑を浮かべてヴァレアを見つめていた。
 昔何度も見た、真意の窺えない微笑み。それなのにどこか優しさも感じてしまうのは、自分の感情に依拠した錯覚だろうかとヴァレアは思う。そうであればいいと思う。
 自分は、あらゆることに対して冷静であらなければならない。
「……こんな場所に姿を晒すなんて、どういうつもり?」
 喉から絞り出すような声で、ヴァレアは言った。テーブルに置いた自分の手をちらりと見下ろすと、指先が小刻みに震えている。震えを隠すように左手に右手を被せ、膝の上におろした。
「あなたの顔が見たかったのよ、ヴァレア」
 ヴァレアは、ヂュ=ドゥランのそんな些細な言葉に動揺する自分を恥じる。思わず俯くが、あまり彼女から目を離してもいられない。自分の立場を強く頭の中で反芻し、そしてビレンのことを考えて、厳しい視線を彼女に向けた。
「冗談はよして」
「冗談でもないけれど、まぁいいわ。確かに四方山話をしに来たわけじゃないから」
 ヂュ=ドゥランは左手だけをテーブルの上に品よく乗せて、軽く顎を引いてみせる。白い指の先で短く整えられた爪が、今も変わらないのであろう彼女の指向と嗜好を示していた。
「自首をしに来てくれたの?」
 ヴァレアは強張った笑みで唇を歪めながら言い、内心では自ら発した言葉の白々しさに驚きすら覚えていた。ヂュ=ドゥランが逮捕されることを心から望めていない自分に気づいたからだ。この期に及んで、まだ彼女を敵として憎みきれていない、酷く背徳的な自己の現実がヴァレアの脳髄を蝕む。
「残念ながら、それはないわね。それに捕まえようっていうのもなしよ」
「……強気ね。イエスと言わせる自信があるんでしょう」
「もちろん。わたしのハンドバッグには、爆発物が入ってる」
 ヂュ=ドゥランの言葉に、ヴァレアは瞬時に表情を険しくする。緊張がさっと全身に広がった。
 ヂュ=ドゥランはそれを楽しむように、微笑を湛えたままヴァレアを見ている。彼女の右手はテーブルの下に隠れて見えない。
 こんなものはブラフだろうとヴァレアは思う。しかし可能性がわずかでも存在するなら成立しうるのがブラフというものだ。彼女はそもそも市議場の爆破未遂で捕らえられた人間である。はったりでない確率も幾分か高い。
 無辜の人々を巻き込み傷つけることは、絶対に避けるべきことだった。すべてを慎重に。
「……要求はなんなの? ビレンを、どうしたの?」
「心配しないで。まだ殺していないわ」
 ヂュ=ドゥランはサングラスの向こうで目を細めて、質問にひとつだけ答えた。だがその回答は、充分にヴァレアを打ちのめす。ヂュ=ドゥランはビレンの失踪――いや、この期に及んではその表現も無意味だ。彼の"拉致"に関わっていないという、ヴァレアのせめてもの望みは、完全に消え失せた。
 怒らなければと、憎まなければと、繰り返し思う。しかしヴァレアを襲うのはただただ大きな悲しみだった。
「……なぜ三日も連絡をよこさなかったの?」
 ヴァレアの声は涙声ほどに震えてしまった。泣いてはいないことを示すため、ヂュ=ドゥランを正面から見据える。ヂュ=ドゥランはその様子に笑みを深めてから口を開いた。
「やることもあったし、それに」
「それに?」
「あなたを少しやきもきさせたかったから」
 ヴァレアは目の前が一瞬ちかりと眩んで赤白くなったように思えた。ヂュ=ドゥランの表情はまるで悪戯をした少女のようで、冗談とも本気とも窺えない。実際これは彼女の悪戯なのだとヴァレアは思った。こちらの反応を楽しむための。だから必死に平静を保つ。
 望んでいた怒りが湧き上がってきたようにも感じるが、それでもその感情がどこか不安定で頼りないことが情けなかった。
 ヂュ=ドゥランはなおも微笑んでいたが、前髪に隠れた眉が少し下がったような気がした。テーブルに視線を落とし、彼女は首を振る。
「半分は冗談よ。時間を引き延ばしてあなたたちを消耗させられないかと思っただけ。人質の重みを増やしたかったから」
「……時間が延びた分だけ、私たちがあなたの居場所を突き止める可能性も高くなるのに? 警察と協力すれば人手だって」
「でも警察と協力はしないでしょ?」
 再び視線をあげたヂュ=ドゥランの表情は、もうあの食えない微笑に切り替わっていた。
「……なぜそう思うの?」
「あなたたちは今回、警察と仲違いをしているに違いないから。だって信用できないはずよ。彼は警官といたはずなのにいなくなったんだもの。そうでしょ?」
 ヴァレアは自分の肘を強く掴んだ。すべて彼女の計算なのか。
「WBI事務所《あなたたち》と警察は、しょせん仕事で手を組んでいるだけなのは調べてある。そしてWBI事務所《あなたたち》が尊敬だの志だの忠誠心だの、そういうもので、断ち切りようもなく繋がっていることは――子供の頃、あなたに教えてもらったわね、ヴァレア」
 心臓が大きく鼓動を打ち、激しい罪悪感がうねり混じってヴァレアを襲う。
 子供時代、警戒心に欠ける自分が世間話のつもりで口にしていた話題の数々は、情報として利用されうるものだったことに対しての後悔。そして"断ち切れない繋がりのために"、『ホンファ』の差し出した手を取らなかったことに対しての負い目。その二つだ。
 しかし後者について謝罪を口にすることはできない。すべきでもないし、しようとも思わなかった。
 幸いにもか、それとも皮肉にもか、その罪悪感を鮮明に思い出したことは、ヴァレアに自分を取り戻させた。自分がどうして、愛した彼女とこうして対峙する位置にいるのかを、改めて認識し直す。
 そして言葉は発さず、首も振らず、ただヂュ=ドゥランの目を見ることを、ヴァレアはそれに対する返事のかわりにした。
「教えて。ビレンは無事なの?」
「殺していないと言ったでしょ」
「私は、"無事"かと聞いているのよ」
 頬にちりちりとした痛みを感じるのは、風の冷たさのせいだけではない。張り詰めた空気が、その場に降りる。
 ヂュ=ドゥランは笑いで歪めた唇から息を吐き出した。
「そうね。すぐさま生活に支障が出るような、そんな怪我はさせていないわ」
 その回りくどい表現は、つまりビレンが無傷ではないことを示している。だが希望もある。ヴァレアは歯を食いしばって不安に耐えた。
「ヴァレア」
 ヂュ=ドゥランの呼ぶ名は、それでも甘い。ヴァレアの返事を待つこともなく、彼女はおもむろに身を乗り出してきた。警戒を敢えてむき出しにしながら、ヴァレアは少し近くなった彼女の双眸を見据える。距離が狭まったことで、懐かしい、あの髪の香油が香った。
「わたしは、"あなたにとってのワルター=バーンズ"のために動いている。同じ立場よ、あなたとわたし。"お互い上手くやりましょう"」
 それは、法の下と法の外という境目以上に二人を隔てる言葉だった。彼女とはけっして相容れることができないのだと、ヴァレアは悟る。
 静かに立ち上がるヂュ=ドゥランを、ヴァレアは目で追った。ヂュ=ドゥランは広げた片手をかざす。
「今から五分間、あなたは視線を下に。わたしを追ったり探ったりしようと思わないで。恋人の命が惜しければね。心配しなくても、明日、事務所に連絡を入れるわ。ワルター=バーンズにそう伝えておいて」
 そう牽制されては、ヴァレアは動くことなどできない。小さく肯定の頷きを返す。ヂュ=ドゥランは微笑み、席から離れる。そしてヴァレアのすぐ隣で一度立ち止まると、少し身を屈め、耳元で囁いた。また会いましょう、と。

 わざと少したどたどしく、そう、八年前の同じ言葉を再現したそれは、ヴァレアを針金で絡め取った。
 肉を、臓腑を、ぎちぎちと締め付けられるような痛みを感じる。苦しさで息が詰まるような感覚を味わう。
 膝の上で拳を二つ握り震わせ、唇を噛み締めながら、じっとテーブルの上に視線を固定する。
 ヂュ=ドゥランの気配はとうに消え失せて、告げられた五分以上が経ってもなお、ヴァレアは冷め切った紅茶の鮮やかな色を見つめ続けていた。


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