〈93年2月11日 W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 ビリーは受話器を肩に挟んで耳に当て、煙草に火をつけた。椅子の背もたれに体重を預けて両足をデスクの上に乗せ、長い保留音が途切れるのを待つ。いらいらするが、仕方のないことだ。
 たっぷり三回は煙を吐き出した頃にようやく、無機質な音はひとの声に切り替わった。
『ハロー?』
 がらがらしたその声は、あからさまに電話を歓迎していない様子だった。"それでこそだ"、とビリーは思う。
「ヘーイ、ミスター・エリオ=ベンソン、久しぶりだな。調子はどうだ? 三日間の休暇は満喫したか? ちゃんと孝行してきたか?」
 ビリーは大げさに親しげな抑揚をつける。だがこれは電話だ。顔まで笑ってやるつもりはなかった。
『……ミスター・マイヤー。あたしが報告することはあれ以上ありませんよ』
 ベンソンはビリーの言葉に答えず、苦々しい声で言う。
「お袋さんは新しい車を喜んだだろ? いつまでもオンボロに乗らせて、事故でも起こしちゃおおごとだからな。あんたは孝行息子だ。俺もそろそろ新車が欲しい」
『ミスター・マイヤー、だから休暇を取るのは前から決まっていたんですよ。ミスター・ガートランのことは不運だと思ってます。でもあたしは報告すべきことは報告してから田舎に帰ってました』
「確かにそうだ。息子の帰りを待ってるお袋さんをがっかりさせるのはよくないしな。で?」
『なにがです?』
 ベンソンの声には罪悪感が滲んでいるのがビリーにもわかる。だが責任感の強さから必要以上に自分を責めるものではなく、確かに罪を犯したからこそのそれだとビリーは確信していた。その行動を探るほど、ビレンの失踪にまったく無関係だと言うには、ベンソンはあまりにも灰色だった。
「報告書ってのは大事だが、本人の口から直接聞くのもそれ以上に大事なときがあるってことさ。さあ、よろしく頼む」
 ベンソンはすぐには答えなかった。言いあぐねるように不明瞭な声を出している間、ビリーは早めに煙草を灰皿に突っ込み、新しい一本に火をつける。
『……ですから、あの寒さですよ。なにか腹に入れなきゃもたないんで、買出しに出たんです。ミスター・ガートランの許可はもちろんもらいましたよ。だけどあたしが戻ったらもう車はもぬけの殻で、周りにも誰も』
 しぶしぶ、といった様子で、ベンソンが喋り始める。
「それで?」
『確かに、ちょいと時間は掛かりました。もっと早く戻るつもりだったのに、ドーナツ屋の店員がちんたらして……』
「さて、そこだ」
 机から足を下ろしながら、ビリーはベンソンの言葉を遮った。電話機を片手で掴んでぶら下げ、椅子から立ち上がり、感情を発散するため半ば無意識にその場を歩き回る。
『なんです』
「そのドーナツ屋の店員について詳しく聞かせてもらおうか。いや、ドーナツ屋だろうがベーグル屋だろうが犬屋だろうがなんでもいい。お前さんがやり取りした相手さ」
『詳しくも、なにも……』
 一瞬声を詰まらせたベンソンの返答に、ビリーは壁際で足を止め、煙草のフィルターを噛んだまま口の端から煙を吐き出した。
「なぁ、ベンソン。俺たちは基本的にあんたらの仲間だが、身内じゃあない。お互いに。それはお前さんに言うまでもないだろ? とっとと吐きな、クソお巡り《ピッグ》。てめぇに車を買うカネを出したのはどこの誰だ?」


〈93年2月同日同時刻 W-14ストリート・オープンカフェ〉

 ヴァレアは季節柄すいたオープンカフェの一席に、引きずられるように腰を下ろした。脚は痛んで、なにより精神的に酷く疲弊していた。店員が注文を取りにやってきて、それになにかを答えた気がするが、自分でもなにを頼んだのかわからない。寒さもろくに感じなかった。
 テーブルに肘をつき、顔を覆う。
 ビレンが失踪して三日が経ったが、誰からもなんのコンタクトもなかった。連絡のない時間が長引けば長引くほど、これは要求のない誘拐ではないかという不安が倍加してゆく。つまりビレンは『人質』などではなく、ただ存在そのものを消すために狙われたのだという考えが。
 ヴァレアは額に爪を食い込ませた。不安と絶望で叫び声を上げそうになるのを必死で堪える。
 ビリーたちは情報をより集めることに重点を置き始めたが、ヴァレアはどうにも事務所でじっとしていられず、こうして引き金通りや街をさまよっている。あてがなくとも、無意味であっても、『探す』ことをしていなければ気が狂いそうだった。
「なんでなの」
 呟いた言葉はほとんど呼気に近く、傍からは唇が微かに動いただけに見えただろう。しかしそれは心底からの言葉だった。
 両親を失い、今も求め続けているのに、なぜ恋人までもがそれをなぞるのか。
 いっそ目の前で喪うほうが哀しみですむかもしれないとヴァレアは思う。
 安否も生死もわからぬ状態で、ただ存在だけが見つけられない。絶望と希望が常にせめぎ合い、精神に安息をひとときも与えてくれない。
 しかもビレンに危害を加えたのが、そしてそれによって自分を今のような状態に陥れているのが、かつて愛した人物かもしれないのだ。
 傍らにひとの気配がし、テーブルにソーサーに乗ったカップが置かれる音がする。顔を覆った指の隙間から覗き見ると湯気を立たせる紅茶だった。ヴァレアはビレンと同じように紅茶を好んでいたので、確かにこれは自分が注文したのだろうと思った。無意識なら、しなれている注文をする。
 すぐに口をつける気にはならなかったが、店員を待たせるわけにもいかないので、膝に置いていたバッグからチップと代金のために財布を取り出そうとした。だが、気配はそれを待たずにヴァレアの横から遠のいてしまう。
 ヴァレアは不思議に思って、ぼんやりとしたまま顔をあげる。その視界には、店員と入れ替わるように現れた――いや、最初からこれが紅茶を運んできたのだろうか?――薄い色の影が映った。
 その影は滑るように移動して、ヴァレアの向かいの椅子に腰を下ろした。
 あぁ、とヴァレアは掠れた声を小さく漏らす。それがどのような感情から生まれたものか、自分でも判別がつかなかった。
 明るい薄紫のスーツを着てオフホワイトのコートを羽織り、つやつやと髪油を塗ったように美しく光る黒い髪は、一筋の乱れもなく高めの位置でひとつのシニヨンにまとめ上げられている。サングラスは黒いが少し色が薄く、目を凝らせばその切れ長の両目が透けて見えた。
 知らぬ姿であるのに、同時に酷く懐かしい。酷く。それはまさしく酷い感情だとヴァレアは自分自身に対して思う。まず抱くべきは警戒と怒りでなければならないのに。
「払っておいたわ。それ、わたしのおごりよ」
 懐かしい、しかし昔よりは少し大人びた甘い声が聞こえた。ヴァレアは再び俯き両手で顔を覆う。これはヂュ=ドゥランだ。何度もそう自分に言い聞かせる。
「……ホンファ」
 感情の混乱で溢れそうになった涙のかわりに、唇から零れ出たのはしかし、"彼女の名前"だった。
 覆った視界ではその表情など見えるはずもないのに、ヂュ=ドゥランが微笑むのがヴァレアにはわかった。


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