〈93年2月同日 W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 ヴァレアが足取りの重さを懸命にごまかして事務所へ戻ると、すぐにオフィスからビリーが顔を出した。
「おい、ベンソンの野郎が吐いたぞ。あいつにカネを掴ませたのはやっぱりあの写真の女だった。ヂュ=ドゥランだ」
 ヴァレアは建物の暖房がむず痒くする冷え切った頬を手の甲で擦る。その名を聞くだけで身体の内も外も波立つようだ。
「こっちも裏が取れたわ。ヂュから明日、連絡がある」
「ならこれで間違いないな。接触してきたのか?」
「ええ」
 引っ込むビリーに続き、ヴァレアもオフィスに入る。バッグを置いて、コートを脱いだ。
「お前、大丈夫なのか?」
 所長室へ続くドアノブに手を掛けながらビリーが言った。ヴァレアはその言葉に、自嘲を含んだ表情で振り返る。
「それは私の身の危険を心配してるの? それとも私の裏切りを心配してるの?」
「どっちだって言って欲しいんだ?」
 ビリーはこの一件以来久しぶりに、シニカルな笑みで唇の片端を吊り上げた。ヴァレアも思わず、小さく息を吐き出して笑う。
「どっちも必要ないわ」
 そう答えて、扉を開けるビリーとともに所長室へ向かう。
 すべて現実だ。


〈93年2月同日 自然光の差し込まない室内〉

 既に体内時計は狂っていてあてにならないが、気を失っていた時間と出される食事の回数から考えて、二日から四日は経っているだろうとビレンは思った。
 窓もなにもないその部屋からでは、外の様子はまるでわからない。室内もコンクリートの打ち放しで酷く寒いが、凍死しない程度には暖を取らせられる。粗末だが水と食料も与えられる。
 ヂュ=ドゥランたちは自分を殺すつもりは今のところないらしい。だとすればおそらく人質なのだろうが、それにしてはなんの動きもなかった。交渉が難航しているのだろうか。
 交渉相手はおそらく事務所だろう――"さもなければヴァレアだ"。
(目的はなんだ。)
 床に転がされた格好のまま、後ろで縛られた両手を一度握って開いた。感覚はかろうじてある。
 逃げ出すことを考えようにも、連中の出方がわからなければうかつに動けない。人質である自分が逃げ出したことで、連中の目的によっては状況が悪化する可能性もないとは言えない。自分の存在が事務所の枷になっているのなら、いっそ死んでも構わなかったが、そのことが彼らに知られなければ意味がない。連中は隠したまま交渉を進めるに決まっている。それでは犬死に以下だ。
 そもそもなにをしようにも拘束のために身動きすら不充分で、丸腰で、それに――
(私の銃はどうしただろう?)
 ビレンは一度考えを断ち切って、ぼんやりとそんなことを思う。ビレンのM10は、ガンマニアよろしく世界にひとつというほどに改造した銃ではなかったが、それでも長年手入れを欠かさず使い続けてきた愛銃だ。失ってしまうのは惜しかった。
 ずっと同じ姿勢を取っているので身体中が軋む。しかし下手に寝返りなど打ったら、コンクリート床のせっかく少しばかり温もった部分から、再び痛いほど冷たい部分に寝転がらなければならなくなる。
(痛いほど冷たい、痛み、痛みだ。ちくしょうめ。)
 結局思考がそこへ辿り着き、ビレンは心の中で叫んだ。彼をずっと苛んでいるのは寒さよりも"痛み"だ。傷の痛み。"大きなショック"。
 一応処置はされているようだが、しかしそれでどうにかなるものでもない。
 仲間の男たちがビレンをがっちりと押さえ、口を塞ぎ、そして(ご丁寧にも麻酔としての睡眠薬が完全に切れるのを待ってから)あの女がまずはナイフで――
 ビレンは額を床に擦りつけてうめいた。これが夢ならば――現実の再現であったとしても――ここで目覚める。しかし眠っていない頭では、それは最後まで繰り返される記憶でしかない。何度もだ。今まで味わったことのない痛みの記憶。言い表しようのないショックの記憶。
 痛みとその記憶に囚われ続ける自分の様は、まるで監禁されたポール=シェルダンだとビレンは思う。彼のように悪夢の幻を見続けるのだろうか。もっとも、それを見るためには生きている必要があるのだが。
 あれ以来ヂュ=ドゥランはビレンの前に姿を見せていない。様子を窺うくらいはしているのだろうが、少なくともビレンのほうでは認識できていなかった。
(あの女を殺してやる。)
 にじむ脂汗が、かすれた絵筆跡のようにコンクリートに濃い色を残す。繰り返し憎悪を思ってみても、それがどこか空虚であることにビレンも気づいていた。
 ヂュ=ドゥランが憎くて仕方がない。殺意を抱くことは事実だ。しかしいざヂュ=ドゥランが目の前に現れたときに、自分はその攻撃的な憎悪を抱いたままでいられるだろうか?
 与えられた苦痛とショックの記憶で、心のどこかが萎縮してしまわないだろうか。
 そのことがビレンは酷く恐ろしかった。怒りとともにあるべき自分の闘争心に自信が持てない。
 彼のプライドには、わずかな衝撃でこなごなになりかねないほどの亀裂が無数に走っていた。


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