〈93年2月同日13時30分 自然光の差し込まない室内〉

「もういまさら飯もいらねぇだろ?」
 部屋に入ってきた男は、にやついた顔で開口一番言った。例の、"聞かん坊の犬の飼い主"を気取る白人男だ。
 身長はそれほどでもないが柄が大きく(筋肉と脂肪が三対七といったところだ)、スキンヘッドで、身体のあちこちにタトゥーが入っている。どう見ても、ヂュ=ドゥランたちと思想を同じくして闘っているようには思えない男だった。なにせ左手の甲になど、『MY $10《俺の十ドル》』と刺青してある。それにビレンはこの男が、資本主義《キャピタリズム》を大尉主義《キャプタンリズム》と発音しているのも聞いたことがあった。
 この忌々しい連中で軽蔑リストを作るのなら、迷わずこの男が一行目だとビレンは考えていた。金で雇われたか、ただ反社会的な立場にいるのが好きなだけの男だろう。ヂュ=ドゥランたちの人手不足も、なかなか深刻らしい。ビレンも、その点に関しては同情すると思ったものだ。
「痛み止めをくれ」
 ビレンは壁際にじっと座ったまま、男の言葉には答えず、目の焦点を合わせない状態で言った。
「限界だ」
「それこそいまさらじゃねぇか。もうすぐ痛みなんてぶっ飛んで天国行きだぜ」
「頼む」
 痛み止めが欲しいのは嘘ではなかった。傷の痛みに加えて、傷口を焼いて塞がれたために引き攣るような火傷の痛みもある。傷を受けた直後や、その後も時折(本当に時折だ)は軽い鎮痛剤を与えられていたが、今はすっかり切れている。こうして痛み止めを懇願していると、ますます哀れな作家の気分になるが、そうも言っていられない。
 男は、ふうん、と馬鹿にしたような笑みを浮かべて、一度部屋を出て行った。そうして戻ってきたときには、片手に見覚えのある錠剤の瓶を握っていた。
「こいつだろ?」
「そう」
 ビレンは顔をしかめ、小さな声で肯定した。男はもったいつけるように、瓶を手のひらでぽんぽんと弾ませている。この男が幼稚なサディズムを備えていることは、いまさら確認するまでもない。
 もう少しこちらへ。
「それをくれ。頼む」
「もっとしおらしく言えよ」
 男はにたにたと笑って、あからさまに揶揄するように言った。酷く不愉快だ。"それでいい"。
 もう少しこちらへ。
「お願いだ」
 ビレンは顔を伏せ、声を絞り出す。男が一歩近づく気配。足りない、もう少しこちらへ。
「薬だってタダじゃねぇんだぜ」
 男が薬瓶を開けている音がする。ざらりと薬が流れ、ぱらぱらと床に落ちる音がする。視界の端で覗き見ると、まばらに散った白い錠剤を、男の無骨なコンバットブーツが踏みつけていた。そしてさらに近づいてくる。心の中で繰り返し唱え続けた呪文に操られるように。そう、もっとこちらへ。そして"もっと私を怒らせろ"。
「いっそシナでもつくってみな」
 男の身体が目の前に来る。ビレンは答えない。
「えぇ? おい、オカマ野郎」
 無言に腹を立てたのか、それとも屈辱で押し黙ったと思って面白がったのか、歪んだ声で罵りながら男の手がビレンの髪を掴む。
 ありがとう、その痛みが引き金だ。
「次は"ファックしてやるぞ"か? 語彙無し能無しの"キャプタン"野郎め」
 ビレンは久しぶりにはっきりとした発音で声を出した気がした。男が聞き返す前に、素早く左腕を上に伸ばしてその口と鼻をふさぐ。一晩かけて、手首の縄は既に解いていた。
 同じように解いて絡めるだけにしておいた足の縄を払いのけながら立ち上がり、男の身体を後方へ押した。薬瓶が男の手から落ちるが、少々の物音ならば大丈夫だろう。この男はもともとなにかとうるさくしていたのだから。
 男を床に押し倒し、馬乗りになる。男は目玉が飛び出すほど目を見開いてビレンを睨み、ようやくもがき始める。
 この数日間で筋力も落ちてしまっただろう。痛みを抱えるハンデもある。一晩中縄と格闘した指は疲弊し、赤く擦れて血が滲んでいる。だがおとなしく殺されてやるつもりだけは、絶対になかった。
 指先が埋まる頬の肉の柔らかい感触が不快だ。しかしこのまま肉を突き破り顎を砕いてやっても構わないつもりで力を込める。男の右腕は膝の下敷きにできたが、左腕は逃してしまった。顔を締め付けられる痛みと呼吸のできない苦しさに男の左手が暴れる。脇腹を殴られ、骨と内臓に響く、鈍く大きな苦痛がビレンを襲った。
 うめき声を上げないために歯を食いしばり、右手に拳を作って男のこめかみを殴りつける。何度も、何度も、執拗に同じ場所を。
 急所を殴られるたびに、男はびくんと痙攣して、抵抗がいっとき弱まる。それがいっときのものでなくなるまで繰り返す。
 首を絞めるほうが早いように思えたが、この男の首ときたら肉の鎧でめっぽう太く、今の自分の握力でことを成し遂げる自信がなかった。
 いや、実際のところ、それも詭弁だ。
「苦しんで死ね」
 窒息で今にも破裂しそうなほどに顔を赤くしてもがく男を押さえつけながら、ビレンは低く小さく囁くように言う。
 非人道的だ。この連中のしたこととなにも変わらない。それはビレンにもわかっていた。しかし今のビレンには、その嗜虐性さえ重要だった。
 怒りと憎悪というパテで、砕ける寸前のプライドのひび割れを埋めなければ、待つのは消沈した末の犬死にだけなのだ。
 生き延びるために、もしくは少しでも有益な死を迎えるために、倫理や理性は適宜捨てる必要があった。


 ビレンは立ち上がって、合わせた歯の間から抑えた荒い呼吸を繰り返し、肩を上下させる。
 男は既に窒息で垂れ流した排泄物で下半身と床を汚して死んでいた。その姿を見下ろしながら、ビレンはやってきたのがこの男であったことに感謝した。今の自分には怒りが必要だ。
 自分には攻撃的な闘争心がある。残っている。けっしてなくなってなどいない。いや、そうじゃない、少しも欠けてすらいない。"欠けたものなどなにもない"。
 ビレンはそう何度も心の中で確認し、言い聞かせた。それがこの追い詰められた状況ゆえの一時的なものであったとしても、今はそれを考えるときではない。
 少し離れた場所に転がる薬瓶を拾い上げる。中にはまだいくらか錠剤が残っていた。三錠ほど取り出して確認し、口に放り込む。口の中は乾いていたが、なんとか唾液で飲み込むことができた。息を大きく吐く。効き目の薄い薬だが、ないよりはましだ。
 それから再び死んだ男に近づき、その身体を検める。せめてナイフでも手に入ればと思ったのだ。しかし男は武器の類は持っていなかった。小さく舌を打つ。
 途中、ビレンの手が男のポケットの紙幣束に触った。そのまま手を素通りさせかけて、思い直したようにそれを抜き取る。
 数えてみると、五ドル札が一枚と、一ドル札が五枚。なんともあつらえ向きだ。
「ちょうど十ドルだ」
 ビレンはそう言って、男の刺青の上に丸めた紙幣を放った。


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