〈93年2月同日14時5分 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ヂュ=ドゥランからワルターへの電話は十四時五分きっかりに掛かり、通話はほんの一分ほどで済まされた。
 会話に用いられた単語の数は、二人合わせても十あるかなしかだ。
 つまりヂュ=ドゥランが結論を尋ね、ワルターはそれに対してノーという答えを返した。それで終わりだ。

〈93年2月同日14時7分 机と椅子のある小さな部屋〉

 ビレンが残りの人間を求めて辿り着いた先は、一階(おそらくだが)の部屋だった。
 地下から階段を上ってと言えば一言で済むが、実際のところは歩くたびに痛みと不快感が襲ってくるので、たまったものではなかった。何度壁に寄りかかって座りこんでしまおうと思ったかわからない。
 荒くなりそうな呼吸を懸命に静かな状態に保ちながら、ビレンは先ほどと同じように、扉横の壁に背をつけて様子を窺っていた。その部屋の扉は最初から少し開いていて、中を横切る人影が見えたのだ。
 慎重に覗いてみると、中にいるのは中年男のほうだった。まさか部屋の中に顔を突っ込むわけにもいかず、よくは見えないが、ヂュ=ドゥランはここにもいないらしい。
 この男はできれば生かして捕らえたいとビレンは思っていた。ヂュ=ドゥラン以外で最も(年齢で考えればヂュ=ドゥランよりも)重要な人物だろう。他の面子がいかにも重要性に欠けそうな人材ばかりだったので、この男も実際にどの程度の存在なのかはわからないが。
 ビレンは銃を構え(なんともしっくりこないグリップだと内心不満だった)、男の動向を見る。男は煙草に火をつけ、なにかを待つように一点を凝視していた。その先になにがあるのかはビレンからは見えない。
 だが間もなくそれも視界に入るようになった。電子音が鳴り、男がそれを手に取ったのだ。携帯電話だった。
「ペオニーか」
 男が開口一番に言った。ペオニーというのがヂュ=ドゥランのことだとビレンも知っていた。電話の向こうがヂュ=ドゥランなら、この建物の中にはいないのだろう。
 男はヂュ=ドゥランとなにかを話している。言葉が彼らの母国語に切り替わったので、ビレンには内容があまり理解できない。だから扉に背を向けている男に対してどう動くべきかを考えることに集中しようとした。
 だが、男は不意に振り向いた。気配を感じてのものというよりは、何気ない動きに見えた。ただ電話をしながら姿勢をかえる、そんな誰でもやる動作に。
 事実、男もビレンと視線がぶつかり、一瞬目を見開いた。しかし男はそれ以上の動揺を見せず、素早く上着の中に手を入れた。
 もう仕方がないことだとビレンは思った。こうなってしまった以上、手加減はこちらの死を招くだけだ。仮に急所をはずして最初の一撃を防いだとしよう、しかしその後はどうなる? 今の自分の状態からして、どういった状況を考えても、それは得策ではなかった。
 銃をこれから取り出す男と、既に構えていたビレンでは、ビレンに分があった。
 ビレンが扉の隙間から腕を突き入れる。男が銃を上着から抜く。ビレンが引き金を引く。男が銃を構える。ビレンの銃の弾が、男の頭を撃ち抜く。
 銃声が破裂して男の頭が折れるように傾き、その瞬間に男が撃った弾は大きくそれて扉一枚だけを破っていった。
 ビレンはそのまま扉を腕で押し開け、部屋の中に入る。机の上で、男が灰皿に置いた吸いかけの煙草が細い煙をのぼらせている。死んだ男の傍には、通話ランプのともる携帯電話が落ちていた。
 少しの間、それを見下ろす。電話の向こうからはなんの音もしない。通話が切れたことを示す音も、何事かと騒ぐような声も。
 ヂュ=ドゥランは、黙って状況を窺っているに違いなかった。おそらくはたいして表情も変えずに。その姿が目に浮かぶようだ。その冷静さが忌々しくてたまらなかった。
 同時に、ビレンの脳裏で再び記憶が再生され始める。(ナイフを持ったヂュ=ドゥラン。)
 ビレンは軽く腰を屈め、大きく無骨な黒い携帯電話を拾い上げた。
(頭の中の映写機は次の場面を映す。切り取られた丸い塊。)
 ビレンは携帯電話を耳に当てた。微かな息遣いが聞こえる。
(映像は断片的だが、静止画ではなかった。血で濡れたその塊を、ヂュ=ドゥランの黒く光る靴がゆっくりと踏み潰す動きはとても滑らかだった。)
 ビレンは口を開いた。
「残念だったな」
(映像の時系列はいつもしっかりと繋がっている。次は踏みつけられた肉塊から白い粘液が飛び出して赤い血と混じり合う色の変化。)
 電話の向こうで、ヂュ=ドゥランも口を開いた。
『残念だわ』
 通話はそれだけでぶつりと切れた。
 本当なら、仲間を殺したことなど不用意に伝えないほうがいいに決まっているのだ。しかしビレンはそれを我慢することができなかった。
 そして女の声は今までに聞いたことのあるものとなにも変わらないようでいて、微かな失望も確かに含んでいた。ビレンはようやく少しの充足を得ることができた。
 だがそれもささやかな勝利だ。ビレンの中で映される映像は通話と同じタイミングで一旦終わったが、終幕のテロップなど出ず、再び巻き戻されるだけであることをビレンは知っている。
 部屋には窓があった。さきほどとまったく同じ映像を頭の中で観ながら、ビレンはカーテンを開け、外に視線を向ける。見覚えのある風景だった。引き金通りではなく、港の近くだ。使われなくなった倉庫街の一角というところか。
 窓から離れ、寝台として使われていたらしい粗末なソファに腰を下ろした。銃を横に置き、携帯電話で事務所の電話番号を押す。
 もはや無機質な感情すら覚え始めている記録映像は、三度目の上映が終わろうとしていた。
(ヂュ=ドゥランの靴が桃色のまだらに汚れ、そこに存在する可能性は完全に潰える。)
 番号の最後の桁を押し、電話を耳に当てる。遠い呼び出し音が鳴り出す。
 彼は生殖能力を失っていた。


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