〈93年2月15日 W-14ストリート・ロングフェロー診療所〉

 ビレンがベッドの上で目を覚ましたとき、最初に見たのはヴァレアの顔だった(ビレンの記憶は、あの建物で電話をかけて以降途切れていた)。
 その長い黒髪のシルエットが一瞬ヂュ=ドゥランのものと重なり、これは悪夢の続きなのかと――もしくは最悪の現実が続いているのかと思った。
 だが彼女を払いのけてしまう前に、その泣き出しそうな水色の瞳や、穏やかそうな顔立ちや、自分の手を優しく握っている手のひらの感触で、恋人だと認識することができた。
 ヴァレアはビレンと目が合うと、震える声で名を呼び、身体を折ってビレンの頭を抱きしめた。ビレンは彼女の柔らかな体臭を、とても懐かしく感じた。

 今、病室にはヴァレアのかわりにロバート医師がいる。ここはリサの夫である彼が経営している、十四番街南の診療所だ。WBI事務所の人間は、大抵いつもここの世話になる。
 ビレンはベッドの上で起き上がっている。まだ痛みはあるが、随分楽になっていた。聞く話によると、丸一日以上眠っていたようだ。あの数日間を思うと、もう少し眠っていたかったとすら思ったが。
 ヴァレアは待合室にいるらしかった。ロバートが席をはずすように頼んだからだ。彼がなんの話をしようとしているのか、ビレンにもおおよそ察しがついていた。
 ロバートは簡単な問診をしてから、先ほどまでヴァレアが座っていた椅子に腰を下ろす。
「ビレン。君は、自分の状態を理解しているのかい?」
 医師の口調は慎重で、銀縁眼鏡の奥の瞳も沈痛な色を含んでいた。
「している。なにせ一から十まで、麻酔もなしにすべて見た」
 ビレンは感情を殺し、機械的に状況を口にする以外はなにを考えることもやめていた。そうしていなければ、また"蘇ってくる"に違いないからだ。付き合い自体は長く、友人であるとはいえるものの、それほど親しいわけではないロバートの前でわずかでも取り乱すことは、ビレンのプライドが許さなかった。
 ロバートはその優しげな顔立ちを悲痛に歪めた。この心優しい医者は、ビレンが彼に対して思うよりは、ビレンのことを親しく思っているようだった。ビレンは彼にとって、愛する妻の同僚であり親友であり、また大切な息子――夫妻が引き取ったリードのことだ――の妹の恋人である。彼らはヴァレアのことも娘同然に可愛がっていたので、その恋人も他人とは思えないのだろう(それなら彼らはヂュ=ドゥランのことも愛するかもしれないなと、ビレンは醜さを自覚しながら平坦に思った)。
「そうか。それなら、僕の立場からすべて説明しよう。構わないかい」
「回りくどい説明だけはやめてくれればそれでいい、ドクター。率直に」
 ロバートは頷いて膝の上で手を組み、一度唇を引き結ぶ。
「……精巣がすべて、陰嚢ごと完全に切除されている。傷口の処置は原始的だけれど、特に化膿もしていない。幸いなことだよ。これで傷口の状態が悪ければ、命に関わっただろう。止血も、どうやらある程度の医学的な知識に基づいて行なわれたらしいから、死なせるつもりはなかったようだね」
「私は存外運のいい人間だと自分でも常々思っている。それで?」
「こういう言い方もなんだが……わりあい綺麗に切り取られていて、神経はほとんど無事だ。だから傷が回復しさえすれば、性的な行為自体は可能にはなると思う」
「その気になることが可能なら、だろう?」
 ビレンは掛け布団を少し引っ張り上げながら、皮肉めいた笑いで口元をわずかに歪めて言った。
「これは……とても複雑で難しい問題だ。気の持ちようで必ずしも解決できることじゃあ、確かにない。でもなにか、乗り越えるための道は見つかるはずだ。それよりも大きな問題は」
「男でなくなったことだ」
 ビレンの言葉に、ロバートは眼鏡を押し上げ、微かに首を振る。
「そう言ってしまうと語弊がある。性別は身体ひとつに左右されるものではないんだ。しかし言わんとすることはわかるよ。そう、ホルモンのバランスの問題だ。男性ホルモンのほとんどが失われてしまう……これは必ずしも性にのみ関わる問題じゃあない。身体にも精神にも、大きな影響を与える……人間の身体はときに予想をはるかに超えて強い、しかし予想をはるかに超えてデリケートなんだ。まず定期的にホルモンを投与する必要があるし、それでも本来の自然な状態には敵わないのが現状だ。カウンセリングを受けたりしながら慎重に進むべきで、周囲の理解と支えや……様々なものが必要になる」
「覚悟しよう」
 ビレンは短く答え、視線を手元に落とした。会話が少し途切れる。
「……まだあるだろう、ロバート」
 ビレンが溜息とともに言うと、ロバートは顎をひと撫でし、苦しげな様子で目を伏せた。
「……君は、子供を望んでいるかい? ビレン」
 ビレンは目線の高さを戻し、見るともなしに病室の白い壁を見た。それから清潔なカーテンを見た。
「子供を望んだことはない、しかし……、……しかし……」
 望んだことはない。それだけを口にするつもりだった。実際にビレンは、自分の子供を欲したことは一度もなかった。将来的にそれを望むこともないだろうとおぼろげに思っていて、だからこの現実にもそれほどの絶望を感じていたわけではないはずだった。
 なのになぜ、"しかし"なのだろう。自分はなにを言おうとしたのだろうか。それを探ろうとしても、言葉は"しかし"で終わってしまっていて、その先になにがあるのか、自分でもわからない。大地が陥没したような空ろな暗い穴が、自分の中に開いたような気がした。なにか、とても根源的な。
 ヂュ=ドゥランへの憎悪や、出来事そのものへのショックから少し抜け出したところで、その先にあるものはなんだというのか。すべてを受け止めていたつもりでも、それはただの錯覚に過ぎず、悪夢の沼から這い上がってはじめて、本当に現実と出会う。ロバートが語った他のすべても、改めて覆い被さってくる。そうだ、ヴァレアはどう思うのだろう。
 目の焦点が合わなくなり、ビレンは閉じた両目を片手で強く押さえた。取り乱してはいけない。
「……僕は、とても、とても怒りを感じているよ、ビレン。あまりに酷い……許されないことだと思っている」
 暗く複雑に揺れるビレンの心情を察したのだろう。ロバートは顔を伏せた。彼の低く落とされた静かな声を聞きながら、ビレンは起こされているベッドに背中を預ける。
「そういう、ものだ。珍しいことじゃない」
 顔の半分を隠したまま、ビレンは言った。実際、狙われる部位としては珍しい場所でもない。それに眼を潰されるより、手足を切り落とされるより、命を奪われるより、いくらかましだと思っていることも確かだ。それでもあれは拷問ですらなかった。なにかを要求され、ビレンがそれを拒んだがゆえの行為ではなかったのだから。あれは敵意と悪意で作られた、ただの贈り物だ。ヂュ=ドゥランからの。
 彼女のもたらしたその毒の本当の効力を、ビレンは今になって知った。
「……このことは、ヴァレアには伝えるかい」
 重いしばらくの沈黙のあと、ロバートが口を開く。ビレンはゆっくりと両目から手を離した。長く押さえていたせいで、視界はちかちかとして、境界線が滲むようにかすんでいる。
「……長く喋るのは、あまり得意じゃない。ドクターから伝えておいてください。……私は、もう少し眠りたいが、構わないか? それとも消灯時間まで待つほうが?」
「君はとても消耗している。心身を回復させるためにも、少しでも多く眠ったほうがいいよ。……ヴァレアには、僕が伝えておく。ゆっくり休んで、なにかあればすぐにコールを」
「ああ」
 ロバートは頷いて立ち上がり、ベッドの高さを戻した。ビレンの視界に広がる平面が、壁から天井に変わる。
「ビレン。僕は君に、本当に同情している。君が抱えることになったものをほんのわずかでも軽くし、道を見つけるために、少しでも力になれたらと思っている……できる限りのことをするつもりだ。どんなことでも、なんでも言って欲しい」
 ビレンはその同情を、不思議と不快には思わなかった。元来から偏屈なビレンは、わずかな例外を除いて、同情も親切も不愉快に感じる性質だったにも関わらずだ。ただ単に、感情を動かす気力が底をついているだけかもしれない。しかし彼の言葉は実際真摯なものだった。それはけっして表面的なものではなく、また医師としての責務のみから生まれるものでもないように感じる。"知る"人間独特の真剣味がある。ビレンは、子供好きであるはずの彼ら夫妻が、血の繋がった子供を持たないことを思い出した。彼らもまた、なにかを抱えているのかもしれないと思い、そして他人の思いやりを素直に受け取ることも、案外悪いものではないとほんの少しだけ思った。
「……ありがとう、ロブ」
 首を動かすことが億劫だったので、天井を見上げたまま、ビレンは静かに言った。ロバートは短いが穏やかな返事をし、退室していった。
 ビレンはゆっくりと目を閉じる。
 この現実に屈服しないという思いだけが、今のビレンの自我の支えだった。
 ヂュ=ドゥランの毒が全身を蝕む。しかしそんな毒はいつかきっと消し去ってみせる。


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