〈93年2月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ヴァレアは事務所裏口の扉を閉め、そのまま背中を預けた。冷え切った息は、暖房の入った建物内でもまだ微かに白かった。
 眉を寄せ、堪えるように目を閉じる。これはなんという現実だろう。
 さきほど診療所でロバートから聞いた話は、ずっと頭の中を這い回っている。
 ビレンにまだ付き添っていたかったが、眠るというのは彼のひとりになりたいという意思表示だろうと思い、やめておくことにした。
 それにいつまでも病室にこもっているわけにもいかない。件の連中はビレンに殺されるか捕らえられるかしたが、肝心のヂュ=ドゥランの行方は今もわかっていないのだから。
 閉じた視界は暗く、後頭部の髪が扉と擦れ合う音だけが自分の内に響く。
「帰ったか」
 オフィスの扉が開き、ビリーの声がしてようやく、ヴァレアは目を開けた。
「あぁ……ごめんなさい。ビレンは目を覚ましたわ。でもまだ休むって言うから」
 ヴァレアは肘で身体を扉から引き剥がして、オフィスに向かう。
「今さっきロブから所長に電話があった。あの状況でくたばらねぇんだから運のいいやつだ。俺たちもまた見舞いに行くさ」
 煙草をふかすビリーの表情は見慣れたポーカーフェイスで、ここ一週間の間に見ることの多かった厳しいものではなくなっていた。そのことに、ヴァレアは救いを思い出す。そうだ、彼は生きていたのだ。生きて会うことができたのだ。
 ビレンが姿を消して以降、特にヂュ=ドゥランからの電話以降は、彼が殺されてしまうという絶望――そして自分たちでもそれを選択せねばならなかった苦悩――で身体中が痛んで軋み、穏やかな眠りなどはるか遠くの存在で、それでいてわずか一分ですら永遠と思うほどに長かった。
 それを思えば、生きた彼を再び抱きしめることのできた幸運はなんと大きいものだろう。
 ビレンがどれだけの屈辱と苦痛を受けたかは想像に余りあるし(考えるだけでそのおぞましさに涙が出そうになる)、彼は一生に関わる重い足かせをはめられてしまったが(しかもヂュ=ドゥランによってだ――そのことはヴァレアにも苦しみと罪悪感をもたらす)、ヴァレアは彼を支えていたかったし、彼の痛みを軽くするためならなんでもしたかった。
 やはり無理にでももう一度ビレンに会ってくればよかった、とコートを脱ぎながらヴァレアは思った。診療所に引き返そうかとすら考えたが、しかしその思考はビリーの言葉で中断させられる。
「これ以上、ややこしい面倒はなきゃいいんだがな」
 ビリーは手に封筒を持っていた。それがヴァレアのほうに差し出される。嫌な空気だ。
「消印はない。構造からして、開けたらどかんってなことはなさそうだが」
 ヴァレアはビリーから封筒を受け取る。簡素な事務封筒で、宛名には確かにヴァレアの名が書かれていた。中には紙以外のなにかが入っている。傾けると、ざらりと細い鎖が滑るような音がする。ヴァレアは封筒を裏返した。
 隅にはっきりとした活字体で、紅花《サフラワー》とあった。
「ヂュ=ドゥランか?」
 ビリーにその名を持ち出されるまでもなかった。その由来を聞いたのは一度きりだ、初めて会ったときの一度きりだ……しかし明確に覚えている。ホンファという名は、紅花《サフラワー》という意味の字を書くよ。
 ビリーの問いに縦にも横にも首を振らず、ヴァレアは震える手で封を破った。頭の中で幼いホンファの甘い声が何度も繰り返される。紅って意味の字を書くよ。
 封筒の中から、ヴァレアの手のひらに滑り出てきたのは、くすんだ金色のロケットだった。普通よりは大振りで幅もあり、ピルケースに近いものなのかもしれない。しかしどちらにしろ、ヴァレアにはまったく見覚えがなかった。
 ロケットをそっと机に置き、封筒を覗いてみると、白いカードが一枚残っていた。指を突っ込んで引っ張り出す。
 そこには"署名"と同じ筆跡で、三行に分けてこう書かれていた。
『死んだ
 あなたの
 母親』


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