〈93年2月同日 W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 ヴァレアはしばらく、そのカードを見つめた。単語の意味は頭に入ってくる。しかしそれが繋がらない。繋げることを自分が拒否しているからだ。
「……これが、"お前のお袋さん"のものだってのか?」
 おそらくそのことに気付いているビリーが、横から手を伸ばし、ロケットを示すように指で机を叩いた。感謝しなければならない。現実を見なければならない。この訳のわからない現実を。
 あなた、は私。母親、は私の母親。死んだ、のも、私の母親。
 ヴァレアが両親と別れてから十年になる。正直に言って、生きて会えるだろうとは、ヴァレア自身ももうほとんど思っていなかった。求めているのは、なにがしかの証明だ。行方知れずなどという曖昧なものではなく、自分(と、そして兄)の気持ちに決着をつけてくれるなにか。
 だから仮に母親が死んだと聞かされても、それを受け入れることはできるだろう。それだけの年月は経っている。
 しかしなぜ、彼女がそれを言える?
 ヴァレアはカードを持った手を下ろし、ロケットを見つめた。やはり知らない物だった。
「違う……違うわ。お母さんはこんなの持ってなかった。お父さんも」
 ピルケースにもなりそうなこれは、なにかを"入れる"物だ。入れ物が送られてきたのなら、その蓋は開けるべきなのだ。
 ヴァレアはロケットに両手を添え、慎重に開けた。危険な薬品などが仕込まれている可能性も頭をよぎったが、一秒でも早く開けてしまいたかった。永遠に開けたくないとも思うのに。
 中は黒かった。いや、黒いなにかが入っているのだ。紅色の絹糸で丁寧に束ねてある。黒の絹糸? 違う、もっと血の通ったものだ。ヴァレアはそれに触れてみた。指先がどうしようもなく震えている。
 これは毛髪だ。切り取られた、黒くまっすぐな髪のひとふさだ。死んだ、私の、母親?
「嘘よ」
 触れてはいけないものに触れてしまったときのように素早く指を退け、目を見開いたまま、ばちんとロケットを閉じた。手の中に強く握る。
「こんなの嘘、こんなことあるわけない。あるわけないわ!」
 ヒステリーのような感情の昂ぶりがヴァレアを襲った。ボリュームのつまみが意思とは無関係に回されて、声が急激に大きくなる。
「ヴァレア」
 ビリーの片手がヴァレアの肩を掴む。ヴァレアはロケットを胸に抱いたまま、大きく首を振る。
「だっておかしいじゃない、なんでなの? なんでホンファがこんなものを持ってるの? お母さんは十年も前にいなくなったのよ!」
 騒ぎを聞きつけ、所長室に繋がる扉からワルターが姿を現した。
「どうしたのだね」
「あぁ、ワルター」
 ヴァレアは自制心を取り戻そうと必死になった。よりによって彼の前で、みっともなく取り乱すことなどできない。自分はもう、素直に泣きじゃくっていられた子供ではないのだから。
 なんでもない、と口にしようとするが、その言葉はどうしても喉から出てこなかった。"だってなんでもないだなんてとんでもない"!
 感情を抑えるように自分の前髪を掴む。しかし皮肉にもその髪の手触りは、ロケットの中に入っていたものとそっくりだった。ヴァレアの黒髪は母親譲りで、母がそのことを嬉しげに言いながら優しく髪を梳いてくれていた幼い頃の記憶までが蘇ってくる。
「もういや!」
 ヴァレアは肩を押さえていたビリーの手を振り払い、そう悲鳴をあげた。その言葉だけが今の本心だった。もうたくさんだ。悲しみでもなく怒りでもなく、ただただ混乱からの涙が溢れ出た。
「あの子はなにがしたいの!」
 気付くとワルターがすぐ目の前に来ていた。ビリーに代わるように肩を支えた彼の顔を見上げる。不安と恐怖で死んでしまいそうだった十年前のあの日、埃臭いあの部屋で、自分と兄を助けると言ってくれたのはワルターだ。心配しなくていいと背を撫でてくれたのはワルターだ。だからヴァレアは、今ここにこうしている。
 だがそのワルターの存在ゆえに、愛したホンファの手を取ることができなかったことも事実だ。
 そしてホンファはヂュ=ドゥランの名で再び現れ、愛するビレンはヂュ=ドゥランに一生に関わる傷を負わされた。
 ビレンの受けた屈辱に、自分とホンファの関係がまったく影響していないとは、ヴァレアには思えなかった。まさか彼女が嫉妬からビレンを狙ったとはとても思えないが、仮に自分がホンファとともにある道を選んでいたなら、ビレンはあんな目に遭わずに済んだのではないか。少なくとも自分が彼女の傍にいれば、彼女をなんとしても止めることができたはずだ。
 しかしあのときに時間を巻き戻したところで、違う選択ができたとも思えない。
 そういったあらゆる戸惑いと、後悔と、"もしも"が、とても短い一瞬でヴァレアの頭の中をめぐる。津波のような、まったく抗うことのできない力を持った混乱が、ヴァレアの理性をさらっていった。この一週間わずかな希望と深い絶望に翻弄され尽くし、疲弊しきっていたヴァレアに訪れた限界だった。
 自分がヒステリックになにかを叫んでいることはわかったが、なにを言っているかはヴァレア自身も認識できていなかった。
 落ち着きなさい、と言うワルターの声(それは叱るものでも諭すものでもなく、ただ穏やかに受け止めてくれるものだった)と、その彼にすがりついて泣いていること、それから傍らに静かに立っているビリーの煙草のにおいだけを理解していた。


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