〈93年2月同日 W-15ストリート〉

 暗い引き金通りの中で、ヴァレアは路肩に車を止めた。
 時刻は住人が活動する夜だが、車のヘッドライトが届く範囲には、人影は見当たらない。車の気配で姿を隠したのかもしれない。彼らは大抵用心深い。
 引き金通りにひとりで足を踏み入れることが、賢い選択でないことはヴァレアにもわかっている。しかも自分の目的はヂュ=ドゥランに会うことで、ビリーの言う通りリスクの高い行動だ。本来なら誰かに同行を頼むべきだった。
 しかしビレンは入院し、警察は今回の件では信頼するに足りない。ワルターを危険に巻き込んでは本末転倒だ。残るはビリーしかいないが、彼を誘って万が一、自分とビリーの両方になにかあれば、ワルターの傍には誰もいなくなる。自分も、ビレンも、ビリーも動けない中で、ヂュ=ドゥランがワルターを狙ったとしたらどうするのか(ビリーもそれを考えたに違いない)。
 だから自分はひとりでヂュ=ドゥランのもとへ行かなければならない。そう思いながらヴァレアは目を伏せた。
 これは半分は言い訳でもある――ヂュ=ドゥランと会うことを、誰にも邪魔されたくないという本音に対しての。彼女に吐き出すに違いない様々な心情を、彼女以外の誰にも聞かれたくないという自尊心に対しての。
 そのことも、ヴァレアはしっかりと認識していた。これはとても利己的な行動だと知っていた。
「いつもだわ」
 ヴァレアは呟き、少しの間、ハンドルに額をつけた。ヂュ=ドゥランの、ホンファのことになると、途端に自分の欲求は利己にまみれる。
 昔もそうだった。ホンファが警察から逃げ出したと聞いたときは、これでまた会えるかもしれないと思った。ビレンにホンファと会うことを禁じられたときは、それに背いて彼女のもとへ走った。彼女が犯罪に関わっていると知っていて。
 ヴァレアは深く溜息をついて、顔を上げた。そして助手席に転がしてあった携帯電話とバッグを引き寄せる。携帯電話は腰のベルトの後ろに固定し(警察車両やWBI事務所の面々の車が引き金通りで盗難その他の被害に遭うことは七割方ないが、あとの三割ぶんのために、連絡手段は身に着けておく必要がある)、中身を片手ですぐに取り出せるようにしてあるバッグからはグロックを抜き取った。車のドアを開け、外に出る。呼気はとても白くなった。
 目の前の建物を見上げる。ほとんど打ち捨てられているも同然のアパートメントの部屋は、一様に暗い。割れた窓、開け放された窓、カーテンの閉まった窓、すべてひとの匂いから遠いように思える。しかしここしかない。ヴァレアには部屋の場所さえわかっている。
 遠く路地裏のほうから、微かな怒号と、乾いた銃声が聞こえた。起こっているのはきっと、引き金通りでは日常に近い出来事だ。怯えは感じない。その声のほうへ走ることもしない。行動を思考で制御できるほどこの『引き金通り』に慣れ、そして今はただ己のためだけに他を無視して目の前の建物に入ってゆく自分自身を、ヴァレアは少しだけ悲しく思った。
 十年近く前、今から向かう先の部屋で震えていた自分はもういないのだ。


〈93年2月同日 W-15ストリート・アパートメント〉

 埃臭いコンクリートの階段を、ヴァレアはゆっくりと三階まで上った。用心しながら廊下を覗くが、しんと静まりかえっていて、ひとの気配はしない。扉はどれも閉まっている。
 銃を構えたまま、向かうべき部屋に近づいた。扉の脇に立ち、離した左手をドアノブに伸ばす。彼女はいるだろうか。
 欲求、不安、恐怖、葛藤、そういったものが混じり合いながら自分の中に広がり始めたが、ヴァレアは唇を引き結び、それらを振り払った。扉を開ける前に迷いで消耗しては駄目だ。
 暖房も入っていないアパートメントの空気と等しくなるように、頭の中を冷やす。なにも考えずにドアノブを回す。ノブを少し引いた後は、手を離して扉の自重に任せる。軋んだ音とともに、扉が床の上に弧を描きながら開いてゆく。
 ぼんやりとしたオレンジ色の微かな灯りが、廊下に漏れ広がった。同時に、あの懐かしい香油の匂いもしたように思えた。
「いらっしゃい」
 まだこちらは姿を晒してもいないのに、扉が開くことを待ち構えていたように中から発せられた声は、間違いなく彼女のものだった。
 ヴァレアは一度目を閉じ、深く息を吐き、足を一歩踏み出して、戸口に立った。そして視界に飛び込んできた姿に、緊張で既に早くなっていた鼓動が、一段と強く、重く、音を立てるのを、身体の内に聞いた。
 彼女は、ヂュ=ドゥランは、乱れたシーツを足先に絡め、ベッドの上に座っていた。ベッドサイドのオイルランプが照らす。"あの日と同じ格好の"彼女を。
 黒い艶のある生地に、赤い大輪の牡丹の刺繍が、裾から胸の下にかけていくつも咲いている民族衣装。明らかに装飾の域を超えた、官能を揺さぶる目的の深いスリットから、白磁のような脚が伸びている。唇を鮮やかな紅が彩り、目元の派手なアイシャドウも紅色だ。
 髪こそ黒く長かったが、乱れもなく艶やかで、そこにいるのはまったく、あの日この部屋で出会った少女だった。
 あの日、ヴァレアがひと目で魅せられた、ホンファという名の。


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