〈93年2月同日 W-15ストリート・アパートメント一室〉

「どう?」
 ヂュ=ドゥランはヴァレアが現れたことに驚きもせず、両手をベッドについて少し身を乗り出しながら小さく笑った。
「あなたに会うときのために、あつらえておいたのよ。さすがに髪は染められなかったけど」
 冗談とも本気ともわからぬ言葉と、少し顎を上げてくすくす笑うコケティッシュな仕草は、とても彼女にふさわしい。
 しかしまるで昔のままのようでいて、よく見ると印象が違うとヴァレアは思った。昔のように年齢とあまりに不釣合いなものでなくなった装いは、あの不快さと紙一重の妖しい魅力がなくなったぶん、ただヂュ=ドゥランという女性を飾るだけのものだ。娼婦のような見目であるのは確かなのだが、今の彼女は娼婦ではないのだと感じられる雰囲気の変化もある。
 だが、ヴァレアにとって彼女が美しいのは変わらない事実だった。傍に寄り、隣に座って、彼女を間近で見つめることができたらどんなにいいだろうとヴァレアは思う。立場上の隔たりも、行ないに対する怒りも、いっさい存在せず――そして本当なら、他に愛する者のいない状態で――彼女に再会できていたらと、そう思う。
 ヴァレアはヂュ=ドゥランの言葉には答えず、深呼吸をひとつした。心臓が少しだけおとなしくなる。
「……私は銃を手放さない。引き金に指も掛けている。でも、最初からあなたに銃口を向けておくことはしないわ。それが、あなたへの信用の度合いよ」
 右手のグロックを構えずに下げたまま、ヂュ=ドゥランを見つめて言った。
「いいわ」
 ヂュ=ドゥランは切れ長の目をさらに細めて、少しだけ笑った。
「ドア、閉めてね」
 続いた言葉にヴァレアは一瞬迷ったが、結局彼女から目を離さないように、後ろ手で扉を閉めた。
 密になった部屋の中は、妙に静かで空気が張り詰めているように感じる。ヴァレアにとって二度の始まりを象徴する部屋だ。不安の迷い道からワルターに救い出された部屋。そしてホンファと出会った部屋。
「ちゃんと来てくれたのね。もう一日でも遅ければ、わたしさすがに待ってなかったわ」
「……無意味だわ。なんのつもりなの。自分の立場を自覚してるなら、さっさと逃げるべきなのに。こんな"わかりやすい"場所でぐずぐずしてるなんて馬鹿げてる」
「あなたのために待ってたのに、酷いのね」
 ヂュ=ドゥランは裸のつま先に絡むシーツを、両の足を使って器用に剥ぐ。彼女の白い脚がことさらあらわになって、ヴァレアは思わず目をそらしそうになった。
「あなたの仲間は三人死んで、ひとりは捕まった。でも他にも仲間はいるでしょう、どこかに? 身を隠す助けを受ければいいのに。それとも、もう切り捨てられた?」
 ヴァレアがそう言うと、喉の奥で笑うような声をヂュ=ドゥランは漏らした。薄暗さと距離のせいで見えないが、脚にはさすがに鳥肌でも立っているのだろう。寒そうにする様子こそないものの、手のひらで太腿をゆるゆると擦った。脚を滑る彼女の手、その指、それらに愛された記憶がヴァレアの中に蘇る。愛し合った感覚が蘇る。それを打ち消すために、ヴァレアは左手を強く握った。
「言ってくれるじゃない。切り捨てられたわたしが、自首をするためにあなたを呼んだのだったら、嬉しい?」
 ヂュ=ドゥランはなにかと、『あなた』を繰り返す。あなたに、あなたを、あなたのために。それはそういった言葉に動揺してしまうほどには、ヴァレアが今も彼女に心を囚われていることを知っているからに違いなかった。
「でも、彼にはしてやられたわ」
 ヴァレアの言葉を待たず、ヂュ=ドゥランは黒い髪を背中へ流しながら、溜息混じりに言った。"彼"の存在を口にされ、ヴァレアの感情がヂュ=ドゥランから離れて冷えてゆく。
「ああしてやれば、大抵の男はショックで大人しくなるか、おかしくなるかするのにね。思ったより、男性性に依存して生きてる男じゃなかったってことかしら」
「……なぜ」
 なめらかに冷ややかに皮肉を絞り出せていたはずの喉が、途端に詰まったように声が掠れた。ビレンが受けた残酷な拷問を、目の前の彼女が事も無げに口にするからだ。
「なぜ、あんなことをしたの。あんな……あんな、酷いことを」
「だってわたし、彼が嫌いだもの」
 髪をひと房摘み、それを唇に押し当ててヂュ=ドゥランが笑う。ヴァレアはめまいを覚える。
「それで……それだけで、あんな?」
「なにをそんなに怒ってるの、ヴァレア?」
 ヂュ=ドゥランは両膝を抱え、首を傾けてそこに頬を付けた。相変わらず微笑んだまま。
「わたしは"上手くやった"わ。命は無事でしょう、彼。だったらいいじゃない。なにが問題?」
「問題だらけだわ……一生に関わることなのよ」
 ヴァレアは身体の震えを感じた。ただでさえあまり重くないグロックの引き金を、指が勝手に引いてしまわないよう、右手に意識を集中せねばならなかった。
「子供を作れないこと? そんなの、わたしと恋人になったと思えば同じじゃない。愛する相手と自分の両方の血を引いた子供を産めないなんて当たり前のことよ」
「"私の"問題じゃないわ、ビレンの問題よ!」
 ヴァレアはついに声を荒げた。
「あなたはビレンの将来の可能性を自分勝手に潰したのよ!」
 激しい怒りと悲しみが、ヴァレアを怒鳴らせる。ヂュ=ドゥランの言うことは理解できる。しかし彼女の理論にはまったくビレンが不在で、彼への関心があまりに希薄で、そのことがとても腹立たしく、辛かった。
「あんな男の将来、わたしの知ったことじゃないもの。どうでもいいわ」
 つまらなさそうにヂュ=ドゥランが呟き、ヴァレアの顔色が変わる。するとそれを横目で見た彼女は、唇を尖らせて――これは昔も時折見せていた、面白くないと感じたときの、そしてなにかを考えるときの彼女の癖だとヴァレアは思い出していた――抱えた膝を伸ばす。
「――彼って、この国の人間じゃない。だから」
「ビレンはこの国の出身じゃないわ」
 ヴァレアは苛立ち紛れにヂュ=ドゥランの言葉を遮った。
「もう、揚げ足取らないで。どっちでも一緒よ。今はこの国のために生きてる人間でしょ。わたしたちの敵よ。わたしたちの目的はこの国を潰すことだし……子供を作れなくするのは利にかなってると思うんだけど」
 少し首を傾け、カーテンの掛かった窓のほうを見ながら並べられるヂュ=ドゥランの言葉は、あまりに白々しかった。彼女は嘘の下手な人間ではない。だからこれはわざとに違いなかった。まるでふてくされた子供が、相手を半ば馬鹿にして並べる言い訳のような口ぶりは。
 ヴァレアの中で、怒りよりも悲しみが深くなってゆく。それでいて怒りが悲しみを覆うほどに燃え広がってゆく。
「それなら殺しなさいよ!」
 左手を大きく振り、ヴァレアは叫んだ。泣いてしまいたかったが、涙は出なかった。
「この国を潰したいなら、殺せばいいじゃない! ひとりずつ殺せばいいわ、みんなまとめて殺せばいいわ! 殺せば誰だって子供も作れなくなるわ! あなたがやったのはただの遊びよ、遊びでビレンを最低の、あぁ、本当に最低のよ、くそったれな最低のやり方で傷つけて、あげくビレンに仲間を殺されて――なにも、何事も成せてない、馬鹿の極みよ!」
 ヴァレアの大声が途切れると、部屋は急に静かになった。肩を上下させるヴァレアの荒い呼吸と、じっと押し黙って呼吸の音さえさせないヂュ=ドゥラン。
 ヴァレアは少し頭がくらくらとして、手の甲で額を押さえた。感情に任せて怒鳴ることに慣れていないせいだ。
 ヂュ=ドゥランが、両脚を揃えて静かに床に下ろした。ベッドに腰掛ける姿勢で、上体を乗り出すように傾ける。その表情は冷えていた。なにをも感じさせない表情で、彼女は目を伏せる。
「……最初から殺してしまうのも、あなたが少しかわいそうだから、なるべくなら殺したくなかったのよ」
 ヴァレアの心臓が、再び重い音を立てた。
「……やめて」
「でも世の中の言う"当たり前の幸福"を、あなたに持たせるのも、少し悔しかったのよ」
「やめて」
 ヴァレアは首を振った。二度、三度、最後には大きく。"私のことを考えるのをやめて"。
「彼をああした理由は、それだけよ」
 部屋にまた沈黙が下りる。ヴァレアはなにも言えなかった。
 ヴァレアは、ヂュ=ドゥランがどのような犯罪者であっても、ただただ信条によってのみ行動するテロリストであればいいと思っていた。
 他人の人生を台無しにすることに罪を感じない、サイコパスのごとき性質を見たくなかった。ヴァレアに心を向ける、ひとりの女性としての姿を見たくなかった。
 どちらも、とても心が乱れるに違いないことだったからだ。そしてそのどちらをも、ヂュ=ドゥランは持ち合わせていたのだ。
 ヂュ=ドゥランが良心の呵責なくビレンを踏みにじったのは間違いないだろうことに憤りを感じる。しかしその動機に、やはり自分の存在があったのだと思うと、胸が痛む。ヴァレアはビレンに対する罪悪感を感じるとともに、彼女の行ないを遊びだと口にしてしまったことを悔いた。
「……私のことを考えて、最初からビレンを狙ったのね」
「そう」
 ヂュ=ドゥランはまぶたを上げ、見慣れた薄い微笑みを浮かべた。
「そりゃあ、ワルター=バーンズを片付けるのが一番よかったけど……あなたたちも頑張ってて、さすがにガードが固かったから。それにワルター=バーンズがあなたたちの要でしょう、彼を使って取引しても、あなたたちがどの程度結果を出してくれるかわからないし、彼を殺したらそれこそ報復に来るでしょう? それを考えると、残るはあの男しかいないわ。わたしたちの目的に適って、なおかつあなたと繋がれるのはね。わたしが彼を嫌いなのも本当だから、ちょうどよかった。どうなったって、むしろ気分がいいだけだもの」
「なぜ私を直接狙わなかったの?」
「"わたし"はそうしてもよかったんだけど。あなただと、あなたがわたしに寝返る可能性をワルター=バーンズたちが考えるに違いないから。それで取り引きを最初から無視されるのは、さすがに"わたしたち"にはローリターンがすぎるでしょう」
 ワルターを裏切ることだけはないと、ヴァレアの矜持は叫ぶ。そのことはワルターたちも解ってくれているはずだとヴァレアは信じている。しかしいっぽうで、確かに寝返りを疑われうることも、ヴァレアにはわかっていた。それだけの関係がかつてヂュ=ドゥランとあった。感情的な絆を排除して現実の可能性だけを見つめた場合、それはむしろ考えられてしかるべき事柄だった。自分自身ですら疑うだろう。ヂュ=ドゥランの手を取る可能性を。
「……どうして」
 ヴァレアは左手を垂らし、足元を見つめて呟いた。とても疲れていた。
「どうして、あなたは私を愛してくれたのかしら、ホンファ」
「あなたがわたしに一目惚れしたんでしょう、ヴァレア」
 ヂュ=ドゥランが片膝を抱え、悪戯っぽく笑った。そのとおりだった。
 あの日、ヴァレアはこの部屋でホンファを見て一目で恋に落ちた。だが友人にも飢えていたヴァレアは、その気持ちの大半を友情だと錯覚してしまった(それはそれで、けっして偽の感情ではないのだが)。ビレンへの幼い憧れを恋だと誤解していたから、ホンファへの想いがそうだとわからなかった。皮肉にもそれがわかったのは、十四、五になって、ビレンに改めて恋愛感情を抱くようになってからだった。
「……でも、それならあの十五分を過ごしてくれるだけでよかったんだわ。この部屋でのあの十五分を。また会いましょうと言ってくれたのはなぜ? 逃げ出したあとまで私に近づいてきてくれたのはなぜ? 事務所の情報を仕入れるため? あの頃から、あなたはこの国の敵だという意志を持っていたの?」
「あの頃はまだ、おカネを稼ぐことのほうが優先だったわ。あとはこの国に慣れることね。わたしはあなたたちの事務所のことも知らなかったし」
「じゃあ、なぜ?」
 ヴァレアが訊ねると、ヂュ=ドゥランは微笑みを深くした。
「わたし、あなたのママのことが好きだったの」
 あぁもういやだと、そう思うのは何度目だろうとヴァレアは思った。
「だから最期もみとったわ。そのことが聞きたくて来たんでしょう?」
 ポケットに入ったロケットごと、ヴァレアは胸を押さえる。
 彼女は私を苦しめるカードを、全部で何枚持っているの?


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