〈93年2月同日 W-14ストリート・WBI事務所・オフィス〉

 ビレンは苦々しい思いで、ワルターの持ってきた書類を読む。写真はもう見る気がしなかった。
「彼女の名前は、ヂュ=ドゥラン」
 ワルターが重い声で言った。それは書類を見ていないヴァレアに向けての言葉だったのだろう。彼女は力なく椅子に座り、頭を抱えるようにしてうなだれていた。
 書類の名前の欄には、アルファベットとは別に、女の国の文字も書かれている。ビレンはあまりその言語に明るくなかったが、「朱」という意味の文字と、「毒」という意味の文字が読み取れた。前者はともかく、後者がひとの名前のものだろうか? だが脳裏に蘇るあの少女には妙にそぐったものであるように思えて、ビレンは不愉快な感心をした。
「今年に入ってから、隣州で逮捕された。市議場の爆破未遂容疑だ」
 市議場の、と聞いてビリーの表情が険しくなる。ビレンたちにはその理由が推測できたが、誰もなにも言わなかった。
「先月のアレか、畜生め。でも東洋人だなんて聞いてない」
 写真を乱暴な動作でビレンに渡しながら、不機嫌にビリーが言う。受け取った写真を見たくなかったので、ビレンはそれを書類の一番下に回した。
「容疑者は三人いたんだ。うち二人はこの国の人間だった。彼女のことは伏せられていたのだよ」
「デリケートなマイノリティの問題か? くそったれ、こういうときに腹が立つんだ、政治ってやつは」
 ビリーのアンビバレントな怒りをなだめるように膝を叩いてから、ワルターは続ける。
「アレックは彼女を下っ端だと言うが、私はもう少し重要な位置にいる人間だろうと思う」
「ミスター・ヘイウッドは、相変わらず女性が力を持つことを好まれない」
 ビレンの言葉に、ワルターが苦笑した。
「彼も、なにもかもをその"信条"によって曲げてしまうほど愚かではないはずなのだ。口で言っているだけだと信じるよ。ヂュはある銀行家を籠絡し、不正に融資を引き出していた可能性もある」
「目的のある資金調達ですね」
「完全な下っ端の仕事じゃあねぇな」
「そのとおり。政治への攻撃、資金の調達、そしてあの国のコミュニズム。意味するところはひとつしかない」
 ビレンは、そのワルターの言葉に被さるような、ヴァレアの微かな嘆きの声を聞いた。
「彼女は我が国に仇なす憎むべきテロリストのひとりだ」


〈93年2月同日 W-14ストリート・WBI事務所〉

 ワルターとの話が終わって間もなく、ビレンは早足でオフィスを出た。口数も少ないまま先に席をはずした恋人を追うためだ。
「ヴァレア」
 ビレンの呼びかけに、階段を上るヴァレアが緩慢な動きで振り返る。その顔は大きなショックで傷悴しているように見えた。
「なに?」
 彼女の声は静かで、しかし悲しみに満ちていた。視線はビレンに向けられているようで、どこか焦点が曖昧だ。
「心配してるの?」
 ビレンは少し躊躇してから、そうだ、と短く答えた。ヴァレアは一度微笑む。酷く苦しげだった。
「大丈夫よ。大丈夫。昔とは違うわ。私はもう向こう見ずな子供ではなくて、あくまでもこの事務所の人間だもの。犯罪者を犯罪者と認識することができるし、手引きしたり見逃したりするような真似が正しいことではないと知ってる。だから心配なんてしなくてもいいの」
「……君は」
 ビレンが口を開くが、ヴァレアは珍しくそれを無視して喋り続けた。彼女はいつも、他人の話を聞いてから自分が話すことがほとんどだった。
「今なら、あの頃ビレンが言っていたことは正しかったとわかる。罪は違っても、彼女はあの頃から自覚を持った犯罪者だったわ。"そんなにおい"がした」
「君は」
「ワルターは!」
 繰り返すビレンの言葉を強く遮り、ヴァレアは階段の手すりから彼のほうへ大きく上半身を乗り出した。
「ワルターは、この国を愛しているわ。そして、私たちはワルターを愛している。だから、私たちもこの国を愛する。この国と国民に害をなす存在は憎むべき敵よ。憎めるわ。大丈夫。それが銃を手にすることだろうと、敵を排除するための行動ならできないはずがない。対話だって情に流されたりしない。それらはすべて冷静に、けれど力をもって強圧的に行なわれるべきことよ。"棍棒を携え、穏やかに話せ"よ、違う? 必要ならテディベアで頭を押さえつけて引き金を引いてみせる」
 並べられる言葉は際立って早口ではないはずなのに、口を挟む余地を与えないものだった。ビレンは眉を寄せ、一度目を伏せる。"これはむしろ私の言葉だ"と思った。ヴァレアが本来、もっと穏健でリベラルな考えの持ち主であることをビレンは知っている。
 彼女は現実に対応するために、自分を塗りつぶそうとしているに違いなかった。その混乱に同情を覚え、そして嫉妬を覚えた。
「ヴァレア」
 ビレンは後者の感情をできうる限りに殺し、彼女の瞳を見つめて名前を呼んだ。
「私は君を心配している。君の行動をじゃない。君自身のことを」
 ヴァレアの唇が薄く開き、そして結ばれる。少し我に返ったような色の変化が、その表情に見て取れた。ヴァレアは眉が歪むだけの痛みを含む、しかし先ほどよりは普段の様子に近い微笑を浮かべた。
「ごめんなさい、ありがとう」
 顎が揺れる程度の小ささでヴァレアは首を振る。
「愛してるわ」
 そして掠れた囁き声で言って、さらに身を乗り出してくる。
 その泣き顔にも近い微笑みを受け止めるように、ビレンは彼女とキスを交わした。


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