〈93年2月 W-15ストリート・アパートメント一室〉

 その部屋は、昔よりもさらに古びていた。しかし鉄筋コンクリートの建物は、朽ちてしまうようなこともなく、しっかりとした足場を与えてくれる。
「懐かしいわ」
 女はこの国の言葉で流暢に呟いた。カーテンを閉めたまま、窓の前に立つ。自分がここを離れてからも、部屋を使う人間はいたのだろう。室内にある布類――カーテンであるとか、ベッドのシーツであるとか――はかび臭く、すすけていたが、何年もまったくの手付かずで放置された様相ではなかった。
 女はその細い人差し指で、カーテンの裾の隙間から窓枠をなぞる。灰色の埃が指にこびり付いた。
『ペオニー』
 女が無表情で、しかしどこか懐かしむように指先の埃を弄んでいると、開け放していたドアからひとりの男が顔を出す。ペオニーは、女のコードネームのようなものだった。
『ここにいたのか。勝手に動くな』
 男は二十代に見える東洋人で、言葉も異国(彼らにとっては"異"ではないが)のそれだ。
「ちゃんと断ったでしょ」
 女は振り向きもせず、両手を擦り合わせて埃を払う。女の言葉はこの国のもののままだ。
『聞いてないぞ。お前は勝手な行動が多すぎる!』
「そんなことない。わたしは、わたしの立場の中でやっても構わないことしかやっていない。今のところね。それとあなた、言葉をいい加減普段から変えたらどう? そんなだから、わたしよりも年上のくせに、わたしよりも働きを任されないのよ。要求ばっかり大きくて」
 女の真正面からの指摘に、男は怒りで顔を真っ赤にした。
『どういう意味だ!』
 男は部屋に踏み込んで女に詰め寄り、女は窓を背に向き直る。表情は薄ら笑いで、あからさまに相手を馬鹿にしていた。
「仕事が小さい、つまらない。そんな文句ばっかり言ってないで働けばって、そう言ってるの」
『ドジを踏んだお前はどうなんだ! お前に』
「わたしはミスを恐れてなにもしないより、ミスを犯してもなにかをする」
 男の言葉を遮り、女は長く艶やかな黒髪を指で一度梳いた。そして一歩、男のほうへ足を踏み出す。
「自分の身のほども考えずに上ばかり見てる人間より、よっぽど『マーマー』に評価されてるわ。わたし、知ってる。あなた、今ここにいるのだって不満なんでしょう。こんなちっぽけな街の、マフィアが支配するわけでもないちっぽけで閉じたスラムにこそこそと隠れているのが? 市議場のひとつも潰せなかった女より下にいるのが」
 女は言葉を紡ぎながら、ゆっくりと、しかしまっすぐに男との距離を詰める。男は口元をぴくぴくと痙攣させるように歪めた。それは気圧される事実を押し隠そうとする表れでもあることを、女は嗅ぎ取っていた。
「なら聞きましょう、わたしたちに議事堂を壊せる? 大統領を殺せる? この国を一夜で潰せる? そんな非現実的極まりない夢物語の武勇伝が欲しければ、ひとりで自爆でもなんでもして。どんな理想も成し遂げられない犬死にをどうぞ。『現実を見ろ、馬鹿が』」
 親密な人間が取るほどの近い距離で、女は立てた人差し指を男の眼下に突きつけた。最後の罵倒は、母国語で口にされる。
 女のもともとの声質として声は危うい甘さを持ち、しかしそこには憤りにも近い明確な冷たさがあった。
「どんなに小さくとも、この国のどこかにダメージを与えればいいのよ。与え続ければいいの。いつか、なにかのとっかかりにできるように。誰かと違って夢見がちな愚か者ではない『マーマー』は、それを望んでる。そのことを理解して。そして働け」
 女は男の肩口をとんと突き放すように押した。男は屈辱に震え、歯を食いしばる。
 そのままで時間が経過すれば、男は侮辱されたことに対する精神の防衛反応として、自己を正当化する怒りのパニックを起こしていたかもしれない。しかし第三者が現れることで、無駄な怒声が響くことは免れた。
「なにを騒いでいるんだ」
 女と同じように、流暢なこの国の言葉で割って入ったのは、やはり東洋人の四十男だった。顔を隠すようにサングラスをしている。
「なんでもありません。少し、彼に『マーマー』の望みを言い聞かせてあげていただけ」
 女は平静な様子で首を振る。四十男はそれだけで状況を理解したようだ。この若い男が普段どうであるかを知っているからだろう。
「もういい、お前は向こうへ行っていろ」
 四十男は、二人から顔を背けている若者の背中を押して、部屋の外に追い出す。若者は不満そうだったが、もう女の顔も見ずにそのまま姿を消した。
「お前も少し控えろよ」
 男は溜息を吐いてから、女にもそう釘を刺す。
「ひとりを邪魔されて、少しいらいらしたから。わかっています」
「それなら構わん。さて、これからどうする?」
 男は懐を探り、煙草を取り出した。それを咥えて火がつけられる前に、女は窓際に戻る。
「この街は特に政治にも近くない。狙うなら警察か? カネさえ掴ませれば与しやすいんだろう、この辺のは」
「警察はだめ。上のほうは案外しっかりしてるから、狙いを間違えると危ないわ。操れてもせいぜい下っ端ね。あまり派手にはやれない」
「ならどうするんだ」
 女はその場でくるりと半回転し、埃臭いカーテンに平気で包まった。悪戯で隠れる子供のように、一旦笑みを含んだ片目を覗かせてから、顔を出す。
「いい連中がいる。調べてあるの。言ったでしょ、この辺りの"見張り役"を買ってる連中よ。警察とも繋がってるし、カネが効かないぶん警察より厄介。でも警察の"身内"じゃないわ、やりようによっては関係を断てる。だから警察より仕事に真面目なそいつらを封じたら、この辺りで随分動きやすくなるはず」
「そんな連中を、黙らせる方法があるのか?」
「方法と言うより、存在よ」
 女はばさりとカーテンを払いのけて言った。薄暗い部屋に不快な埃が飛散する。
「なんだ?」
「わたし」


「……そういうことなら、やってみるか。他の奴らに話そう」
 女の話を聞いて、四十男は頷いた。
「わたしは少し後から行くわ」
「わかった。すぐ来いよ、ペオニー」
 男が立ち去るのを見送って、女は再びカーテンを手に取った。開けてしまうことはしない。窓から姿を見られないとも限らないから。
 カーテンの端を握り、その隙間から外を覗く。
「ペオニー、ペオニー。名前がいくつあるか、数えていればよかった」
 呼ばれた名をひっそりと反芻し、切れ長の目をさらに細めて、女はひとりごちる。女は立場上しょっちゅう名を変える。昔別の"仕事"をしていたときも、たくさんの偽名を使った。"本名"として持っている名も、本当は正式に母国に認められた名前ではなかった。法に守られる存在ではない。認識すらされていない。"そういう出生"なのだ。
 女はその数多いうち、ひとつの偽名を思い出す。懐かしむ。この部屋で名乗ったあの名前。
 きっと"同じ立場"だと、女は思った。そうであるがゆえに自分の差し出した手を拒み、そして今は対峙するであろうかつての恋人を想った。
 ほんの短い間、それでも"心身ともに"愛し合った少女。
 ヂュ=ドゥランは、ホンファという名が再び彼女の声で紡がれるときを思って、感情の窺えないうっすらとした微笑を浮かべる。


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