〈93年2月7日 W-15ストリート近く〉

 十四番街から引き金通りに及ぶ範囲での犯罪者の狩り出しを、WBI事務所の人間だけでやるのは不可能だ。だから当然の判断として、ワルターは警察との連携を決めた。あまり大々的にとはいかなかったが、人手は借りられる。日夜交代での見回りや張込みが行なわれ始めて、数日が経っていた。
 ビレンは引き金通りの近くに車を止めていた。ただでさえ寒い盛りに、夜の空気の冷たさは針のようだ。エンジンをふかしていると目立つため、ヒーターを入れることもできない。
 窓ガラス越し、視線をじっと暗い引き金通りの入り口に注ぎ、手がかじかんでしまわぬよう、強く握っては開くを繰り返す。そのたびに革の手袋が軋む音を立てた。
 ビレンの今日の相棒は、ベンソンという名の太った赤毛の警官だった。だが彼は席をはずしている。食べ物を買いに出たのだ。ビレンが少し遅いと感じて何度か時計に視線を向け始める頃、ベンソンはようやく戻ってきた。
「のんびりするなら、せめてもうひとり人数がいるときにしてくれ」
 ベンソンが後部座席に乗り込むのに合わせてビレンは言った。
「すみません。店員がもたもたしましてね」
 ベンソンは申し訳なさそうに眉を歪めてみせる。彼の膝の上には、警察の慣例のようにドーナツの箱が乗せられていた。
「コーヒーをどうぞ、ミスター」
 シートの間から、蓋付きの紙コップが差し出される。ビレンはコーヒーが嫌いだったが、蓋の隙間から漏れ出る湯気の温かさは魅力的だった。
「ありがとう」
 引き金通りの入り口からは注意をそらさないようにしながら、ビレンは紙コップを受け取る。熱いコーヒーは、手袋越しでも温もりを伝えてきた。
「こいつも食べますか?」
「結構」
 持ち上げられたドーナツの箱には短い返事をし、コーヒーの蓋を取る。温度の高い空気が立ち上って顔に触れるのが心地よかったが、すぐに寒さで冷めてしまいそうだったので早々に口をつけた。喉にまとわりつくようなくどさと強すぎる匂いには閉口するが、身体を温めてくれる効果にはかえがたい。
「もう少し季節を選んで欲しいもんですな。寒くってかなわない」
 後部座席でドーナツの箱をごそごそとやりながら、ベンソンが愚痴をこぼす。ビレンも、そうだな、と気のない返事をした。吐く息はコーヒーでぬくもったせいで余計に白かった。
「もっとも夏も勘弁ですがね。クーラーの入らない車内に閉じこもってるのは、そりゃもう地獄だ!」
 甘ったるい香りがビレンのところまで漂ってくる。ベンソンはよく喋る男だった。ビレンは彼の他愛ない言葉に、無視にならない程度に相槌を打ちながらコーヒーを飲み干した。空になった紙コップを脇に置き、両手をハンドルに乗せてフロントガラスから前を注視し続ける。
「――そのときは危うく救急車の世話になるとこでしたね。けど、ここいらの暑さも寒さもまだましなほうらしいですよ。あたしの同僚の田舎なんざ、もっと……」
 ビレンは少し頭が痛くなってきた。話好きでない人間が、話好きな人間と二人きりになる苦痛というのは、実際のところかなりのものだ。
「ミスター・ベンソン、無駄話なら」
「まぁいいじゃありませんか。あたしだってちゃんと見てますから」
 いつまでも止まらないお喋りにビレンが業を煮やして口を開くが、それもまた遮られてしまう。ビレンは強く言う気にもならず、溜息混じりに首を振った。妙に身体がだるくて、些細なことが億劫に感じた。

 時間はどれだけ経っただろう。ベンソンは、まだ話していた。いくらなんでも、彼はここまで饒舌な男だっただろうか。ビレンはそう思うが、見るべき場所から意識を散らさずにいるのが精一杯だった。頭がぼんやりするような気がするのだ。少なくとも、感覚が研ぎ澄まされていない。コーヒーでのぼせたのだろうか? しかし、たかだかコーヒー一杯の温もりなどは、とうに身体から消え失せていた。
「……空気が悪いな」
 額に拳を当て、ビレンは呟いた。
「窓を開けますか?」
 なにやら学生時代の話をしていたベンソンが、言葉を中断して尋ねてくる。
「そうすると君が寒いだろう。少し外の空気を吸ってくる」
 ビレンはそう言って、車のドアに手を掛けた。視線を引き金通りの入り口に向けたままの手探りなので、開けるのに少し時間が掛かる。ベンソンはまた、そういえば、と関係のない昔話を始める。
 ようやくドアを開けて、重い腰を浮かし、車の外に出た。途端に痛いほど冷たい外気が襲うが、いっそ空気の流れが存在する外の寒さのほうが心地よいときもある。
「あたしの兄貴もね、結構な歳なのにまだ……失礼ですが、ミスターはおいくつですか?」
 なぜかベンソンも、ビレンに続いて車から出てくる。手にはきちんとドーナツの空箱と紙コップを持って。"二つの"紙コップを持って。
「三十五になったばかりだ」
 確かに不躾で、そしてくだらない質問だとビレンは思うが、それを言うのも面倒で、素っ気なく答える。
「随分年上ね」
 聞こえた声は、女のものだった。


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