〈93年2月同日 W-15ストリート近く〉

 悪寒にも近い緊張が、ざあっとビレンの身体をめぐる。声のしたほうを振り向くと、十五フィート(四、五メートル)ほど先に女が立っていた。まるで墓地帰りの寡婦のような黒い帽子と服を身に着けた、小柄な女が。
「わたしの国じゃ、年上は敬うものなんだけど、この国ではどうなのかしら。もっとも、どのみちそんなつもりもないけど」
 ビレンは女の存在に、今の今までまるで気がつかなかった。いくら夜にまぎれるような黒を着込んでいるとはいえ、なんの気配も感じなかった。
 いや、そうだろうか。本当に気配はしなかった? "自分が気配に気づけない状態だったのではなかったか?"
 身体がだるい。神経が苛立つ。なにかを億劫に感じる。頭が働かない。注意が散漫になる。そうだ、"眠気"だ。しかも強い緊張を感じてもなお覚めない、強制的な。
 自覚してしまうと睡魔は形となって襲ってくるが、まだ意識を失うほどには至っていない頭を、必死で集中させる。
 ビレンの背後で足音がした。近づいてくるのではなく、離れてゆくそれだ。
「ベンソン? ベンソン!」
 女に視線を固定したままビレンが強く呼びかけるが、ベンソンの返事はない。ごそりと空のドーナツ箱の音がして、そのまま気配が遠のくだけだった。ビレンにもわかっている。心当たりなど、彼の持ってきたコーヒーしかないのだ。
「彼にはおカネが必要だったのよ。それだけのこと」
 女が言った。目の前にいる女は、ビレンにとって厭わしい、あの少女の面影を残す人物以外の何者でもない。ヂュ=ドゥラン。
「くそったれ」
 ビレンは口の中で毒づく。目の前の女に対してでもあるし、ベンソンに対してでもあるし、自分自身に対してでもある。つまりはこの状況すべてにだ。
「相変わらず、こわいこわいね、お兄さん」
 ヂュ=ドゥランが帽子のベールを上げ、東洋人の特長色濃いその顔を晒しながら、わざと少し片言の――八年前の、あの少女そのものの――言葉でからかうように言った。
 ビレンを目的に近づいてきたことが、その口調からわかる。経緯は知らないが、少なくともこの辺りに舞い戻ってきたのだ。WBI事務所の人間から身を隠すより、むしろ接触してくる可能性もあるにはあった。現在の状況は、まったく望まないことだったが。
 今の彼女は『ホンファ』と違い、周囲の恣意的な思惑が作りあげた、そうあるべきではない蠱惑の殻に覆われているわけではなかった。それでもビレンは、姿を目にし、声を耳にするだけで不快感を感じる。それだけあの頃のイメージが強烈だったし、それに彼女はあの頃よりもいっそう明確な敵だった。"あらゆる意味で"。
「あいにく、私は昔から君が嫌いでね」
 答えながら、どう行動すべきかビレンは考える。ヂュ=ドゥランが単独でこうして出てくるとも思えない。仲間がいるはずだった。どこに隠れているだろう、どこまで近づいてきているだろうと思うが、目の前の女から目を離して周囲を見回すこともできない。逃げるべきか。かじかんだ手で車のドアを開け、エンジンをかけ、アクセルを踏む? このまま身を翻し、この場から駆け出す? できるだろうか、この鈍った頭と身体で。そもそも、本当なら既に銃を抜いていなければならなかった!
「わたしもよ。あなた大嫌い。銃を向けてくれたことも、わたしを見るその酷い目つきも、忘れないんだから」
 ヂュ=ドゥランの声には、言葉とは裏腹に笑いが混じっている。ビレンはこの女に一度会っただけだったが、あのときもこんな様子だった。どこか超然とした余裕で、ひとを挑発するような態度。変わらない、忌々しい存在だとビレンは思った。
 彼女はなぜこんな人間を、と、ビレンは一瞬感情的な思考に支配されかけて、慌ててそれを振り払った。利己的な嫉妬に身を任せていい状況ではないと彼にもわかっている。
 だがその時点で、残念ながらビレンは冷静さを欠いていた。彼を乱したのは睡眠薬だったのかもしれないし、ヂュ=ドゥランそのものだったのかもしれない。
 ビレンはコートの内側に手を入れ、銃を抜こうとした。しかし彼は銃の扱いに長けていたが、上着に隠れたショルダーホルスターから西部劇のガンマンのような早抜きができるわけではなかった。
 彼が銃を抜ききる前に、ヂュ=ドゥランが持っていたハンドバッグを鋭く投げつけてくる。そのせいでまた反応が遅れ、バッグから身を庇ったそのときには、物陰から短い距離を疾走してきた二人の男が声もなくビレンの両腕を掴んでいた。
 銃を持った腕が背中の無理な方向へねじ上げられ、もう片方の肩を強く押されて地面に倒れ伏す。男のひとりが背中にのしかかって身動きが取れなくなる。銃を握る手はがっしりと掴まれていて、引き金を引くこともできなかった。胸部を潰されるような圧迫感と苦痛で、声が喉の奥で自然とうめきの音を出す。
「ゆっくり眠れるまで待ってあげるつもりもないし」
 ヂュ=ドゥランの声と靴音が近づいてくる。気配からして、身を屈めてバッグを拾い上げたらしかった。その間に、手の銃を男にもぎ取られる。
 ビレンの服の袖が、摩擦で皮膚に痛みを感じるほど乱暴にたくし上げられた。腕が冷たい外気に晒される。逃げられない。ビレンの頭に、その屈辱的で絶望的な直感がねじ込まれてゆく。
 ビレンの上方でなにかを探る物音がし、手袋をした女の手が手首を取る感触が伝わってくる。それから腕に針の刺す痛みも。液状の異物が血管を押し広げながら入り込んでくる不快感も。
「チオペンタール、起きてなきゃ殺すと言われたって起きてられないわ。なにかの間違いで死んじゃったらごめんなさいね」
 笑み混じりであるのに喜怒哀楽のどれも感じられない声で、ヂュ=ドゥランが言う。
「くそ売女め」
 急速に遠のいてゆく意識の中、ビレンは最大限の怒りと憎悪を込めて低く罵った。
「あんまり汚い言葉遣いだと、大切な恋人に嫌われるわよ」
 さらに怒りを煽るその言葉に、しかしビレンはもうなにを返すこともできなかった。


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